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9.アフリカに渡る!(2)

[アフリカが見えてきた!]
絶好の船旅日和、フェリーはジブラルタル海峡をタンジールに向かう。天気は晴れ、風もそれほど強くはなく白波が立つほどではないので揺れもない。甲板に出てデッキから海を眺めているとちょっと肌寒いがそれも心地よい。地図を見ると、最も狭い海峡部分はタリファとその対岸までのあたりで僅か15kmしかないが、タンジールへは斜めに横切るため30kmちょっとある。今日は視界も悪くないのでしばらくするとアフリカ大陸の姿がはっきり見えてきた。

 
ジブラルタル海峡から見るアフリカ大陸の北端。もうタンジールも近い。

ジブラルタル海峡と言えば、8世紀初めにイスラムの軍勢がこの海峡を渡ってイベリア半島に攻め入った史実につながる。既に7世紀末には北アフリカ全域を支配していたイスラム教徒が西暦711年、イベリア半島に向けて勢力拡張を押し進めたのだが、軍馬とともに数万の軍勢がどんな船で、どうやってこの海峡を渡ったのだろうか?デッキから海面の先に見えるアフリカの陸影を見ているとそんな思いが浮かんでくる。

ところで、侵入した勢力はベルベル人(サハラ砂漠以北の先住民族)を主体にして最盛時でもわずか6万人程度だったと言われているが、当時の西ゴート王国は内戦続きで疲弊していたこともあって、あっという間に席捲され2、3年の間に今のスペイン・ポルトガルの殆どがイスラム化してしまう。その後のスペイン史は、800年近くもの間イスラム支配が続きスペイン文化に多大な影響を与えたのはご存知のとおりである。しかし、1492年になってイスラム勢力の最後の砦だったグラナダのアルハンブラ宮殿が陥落し、ようやく終焉を迎えるのである。

乗船して小1時間もすると甲板に出てくる乗客が増えてきた。白いタンジールの町がだんだん近づいてきたからか。移り変わっていく景色をゆっくり楽しめるのは船旅ならではのこと。デッキにもたれながらじっと眺め入っている人、盛んに写真を撮る人、様々だ。


タンジールの東部の海岸。ホテルかマンションか、遠目にはきれいに見えるが・・・


甲板に出てタンジールの景色を眺める人達。


タンジール東部の新市街だろう。海岸沿いはコスタ・デル・ソルと同じようにリゾート開発が進んでいるのだろうか?


フェリーのそばを通る地元の漁船(?)。


もうすぐ埠頭に着岸。港の後背部はタンジールの旧市街(メディナ)らしい。

[タンジールに上陸]
10時を少しまわった頃船は接岸し下船が始まった。どっと押し寄せる人並みで緑色のシールを確認している余裕はない。とにかく列の流れから逸れないように入国審査を通過し、建物を出ようとするとフェリー会社の係員か、下船した一人ひとりから切符を回収している。こちらは切符など渡されなかったので肩をすくめているとストップがかかってしまった。他の乗客はどんどん行ってしまうしどうなるかと思っていたら例のガイドが気付いたのか男に何か話してくれて開放された。同じツアーで切符を持っていた者もいたようなので一体どうなっていたのか、結局のところよく分からない。


下船してモロッコ側の入国審査ゲートに向かう。

フェリー内ではバラバラになっていたツアー仲間が緑色シールを目印に大型バスでごった返す広場に集まってきた。スペイン時間は10時半を指しているが、こちらの時刻は8時半だという。もともとの時差が1時間、さらに
スペイン側がサマータイムで1時間先にいっているので計2時間こちらが遅れている。

[さあ、市内観光へ]
タンジール(Tanger、タンジェ(仏語?)ともいう。スペイン語ではタンヘルと読む。英語表記はTangier。)の観光はここからバスに乗り換えて始まる。英語ガイド付きか、仏語・西語ガイド付きかによってバスが分かれるのだが、日本語ガイドがない以上どちらでも同じようなもの。仏語・西語を選択してバスに乗り込むとモロッコ人の若いガイドが「フランス語の人はどのくらいいますか?」と問う。見渡すと過半の手が挙がり、このバスではフランス人観光客が大勢であることがわかった。スペイン語は思いのほか少なく、10人もいるかどうかだ。他にドイツ人のグループもいたはずだが、英語のバスに乗ったのだろうか。
ところで、こうやってタンジールに英・仏・独・西から観光にやって来るのは近世の歴史とそれなりに関係があるからではないかと勝手に想像する。

モロッコ王国(英語でKingdom of Morocco、スペイン語ではMarruecos)と言えば、映画[カサブランカ」の舞台だったことと時折サッカー日本代表の対戦相手になることぐらいしか思い浮かばないが、今回、モロッコの基本情報、特にタンジールが絡む20世紀初頭のエピソードを知るとヨ-ロッパとアフリカの関係が見えてきて興味深い。

[挿話:モロッコ近代史の一コマ]
19世紀末のモロッコは、ヨーロッパ列強による植民地拡張政策の格好の草刈場になっていた。スペインは19世紀中ごろから
モロッコ北部の侵略を行い、フランスも東隣のアルジェリアから侵攻した。その中でもタンジールは、地中海の制海権を制するジブラルタル海峡の重要戦略拠点であり、古代から激しい争奪戦が繰り広げられてきたが近代においても遠いアフリカ航路の途中寄港地として重要視されていた。

当時、既にモロッコの領土はヨーロッパ主要国の微妙なパワーバランスの中で、スペインは地中顔沿いのセウタ(Ceuta)とメリージャ(Melilla)の飛び地を確保し、それ以外はフランスが支配することで収まりかけていた。しかし、フランスがモロッコの内政に干渉して権益確保に励むに及びこれを苦々しく思っていたドイツ帝国が横槍を入れてきた。

1905年、ドイツ帝国の皇帝、ヴィルヘルム2世が休暇の地中海クルーズの途中で突如タンジールに立ち寄り、モロッコの領土保全と門戸開放を主張する演説を行いフランスのやり方を牽制した。この背景には、皇帝ビスマルクの後を継いだヴィルヘルム2世が遅れを取っていた植民地獲得競争に何とか食い込もうとしてアフリカや中近東に進出しようと目論んでいたことがある。モロッコはこの事件をきっかけにドイツを頼りにしてフランスと対立、独仏間は一時一触即発の危機を迎える。しかし、フランスが堪えてヨーロパ列強による話し合いで解決する方向となり、翌年アルヘシーラスで国際会議が開かれた。結果はドイツの思惑とは違って、複雑な利害関係から
イギリス、ロシア、イタリアなどがフランス・スペインを支持、唯一ドイツ寄りだったオーストリアも力にならず、ドイツはそれまでの既得権益を認めざるを得なかった。これが「第一次モロッコ事件」と言われる出来事だが、その後のモロッコ史に大きな影響を与えた。

1956年、モロッコはフランスから独立を果たしたが宗主国の影響力は残り、アラビア語のほかフランス語も事実上の公用語になっている。また、セウタやメリージャは今もスペインの飛び地領土である。


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