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19.マドリード④(帰国の朝) [15/9北スペイン]


 [朝の散歩]

日が変わって月曜日、今日午後の便で帰国するのだが昼飯時を含めて残り半日ある。
ホテルはマドリードの旧市街にあり、一歩出れば石造りと
石畳の街並みでまさしくヨーロッパにいることを感じさせる。

遅めの朝食の後、ホテルの近場をブラつく。まず地下鉄カジャオ駅のコルテ・イングレスのショッピングセンターで小物の土産を買い、下町感漂うカルメン通り(Calle del Carmen)をブラついてソル広場経由、グランビア大通りに出た。

この通りには20世紀初頭に建てられた建物が多く、往時の面影を感じさせる。
きっと一時代前のマドリードはこんな雰囲気だったのだろうが、勿論今も高級ブティック、ホテル、レストラン、映画館などが立ち並びこの町を代表する繁華街であるのは間違いない。

そこから反転してホテルに戻る。途中アレナル通り(Calle del Arenal)で通りすがりの本屋をのぞいてみた。折角なので旅の記念にと活字の大きいやさしそうな単行本を1冊購入。多分パラパラするだけだろうが…

朝の散歩は正味約1時間半で終了。
部屋に戻っていつでも出れるようにパッキング
を済ませ、今度はスペイン広場に向った。




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ホテルを出て右手を少し上ると古めの集合住宅の間に小さな空き地があった。


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グランビア大通りに近い地下鉄カジャオ駅そばにあるエル・コルテ・イングレス(El Corte Inglés)デパートのカジャオ店。



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下町っぽいカルメン通りに人だかりになっている店があった。「マノリータおばさん」という名の宝くじ屋のようだ。当たりくじが出る人気店なのだろうか?





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2度目のプエルタ・デル・ソル広場。昨日は日曜の夕方だったが、今日は月曜の午前。




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グランビアに近い下町らしい界隈。





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グランビアの地下鉄駅あたり。マドリードに着いた日の夕方タクシーで通っている。




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は月曜日の午前で、グランビア大通りの広い歩道もまだ閑散としている。




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グランビア大通り沿いには流石に年季の入った格調高い建物が並んでいる。



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通りすがりに入ってみた本屋の内部。硬めの本が多そう。




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店内は木目調の配色で統一されている。




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書店を出て看板を見ると「Multicolor(多色?)」という店名。




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店名の下には ”教科書、木のおもちゃ” とあるので一般的な本屋ではないようだ。



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旅行でどこを歩いているのか普通は気にしていないが、街角に必ずある通りの名前を写真に残しておけば後で調べられる。上は壁に張られたアレナル通り(Calle del Arenal) のプレート。

 


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ソル広場から始まるアレナル通りは歩行者天国のショッピング通りだ。




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ホテルに戻ろうとアレナル通りを来ると、お馴染みの王立劇場前広場(地下鉄オペラ駅がある) に出る。ホテルはもうすぐ。





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王立劇場前広場近くには沢山のレストランがある。壁に張られたパエージャ専門レストランの案内。お昼の候補。




 [スペイン広場]

ホテル前の坂を下って王立劇場の横からフェラス通り(calle del Ferraz)に入り、スペイン広場に向った。

グランビア大通りに出て西に行ってもスペイン広場にぶつかるが、それとは別のルートだ。

フェラス通りの歩道はゆったりしている、しかも王宮の裏に続くサバティーニ庭園を左に眺めながら行くのは気持が良い。古くから開けた街の真ん中にこんな緑濃い庭園を残しているとはさすがだ。

少し行って歩道を渡るとスペイン広場(Plaza de España)に着く。10年前に初めてスペインに来た時最初に寄ったのがここだったことを想い出して懐かしい。

この広場はスペインの文豪セルバンテス(Miguel de Cervantes S.)を顕彰して1930年に造られたということだ。彼の代表作は言わずと知れたあの”ドン・キホーテ”(Don Quijote de la Mancha)で世界的に有名。

中央にセルバンテスの大きな座像があり、その手前に馬上のドン・キホーテ、ロバに跨った従者サンチョ・パンサが配されている。

木立に囲まれた小さな公園風の広場にすぎないのだが、ここもマドリードでは観光客の聖地でいつも人が沢山だ。ということでスリ、置き引き事件がよくあるようで、背中のザックなどのジッパーも要注意だ。

借景ということになるのか、写真を撮ると必ず背後に2本の高層ビルが写ってしまう。
真後ろが「スペインビル」、西側の高い方は「マドリードタワー」。後者は142mの高さがあって1948年に完成した頃はヨーロッパ一の高さだったという。

再び同じ道を戻ってホテル手前の王立劇場のそばで最後のランチをとった。最後の飯を期待外れに終わらせたくなかったのでメニューはパエージャを中心に選んだが、やはり正解だった。

食事の後ホテルに戻り、預けていた荷物を引取ってタクシーでバラハス空港に向った。 (完)

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王宮を左に見てフェラス通りの歩道を行く。前を行くのは騎馬警官(?)か。スペイン広場は画面前方の高層ビルの手前になる。




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フェラス通りからは見下ろす形になるサバティーニ庭園(Jardines de Sabatini)。庭園内にある人物の彫像が見える。マドリードのど真ん中にこんな緑があるのは素晴らしい。




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スペイン広場の全景。中央にセルバンテスとドン・キホーテ、サンチョ・パンサの像が見える。真後ろの建物が「スペインビル」、左側の高層ビルは「マドリードタワー」。




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背の高い顕彰碑をバックにセルバンテスが座り、その前をドン・キホーテ一行が行く。





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”貧馬” ロシナンテに跨るドン・キホーテとロバ上のサンチョ・パンサ。像が青銅色(?)のためかコントラスト不足で見ずらい。




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どっしり椅子に座ったセルバンテスの像は大理石だろう。




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来た道の反対側の歩道を戻る。歩道沿いの各種道路標識。




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戻りの道から見た王宮の北側。右側がサバティーニ庭園
になる。




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最後の昼食で入ったレストラン(Café de La Ópera)。




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例によって日替わり定食を注文、最初に来たのは野菜サラダ。


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さらにパエージャをシェア。今回の旅では何回かパエージャを食べたが例外なく旨かった。




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日本人にとってスペインの味は全く違和感がないし、昼の定食(Menú del Día)は味もコスパも良くて言うことなしだ。




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この辺りだけなのか、カフェやレストランの建物の壁にある店の案内板。観光客には有難い。




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イスタンブールの乗継出発ロビー。時刻は01時(日本は07時)時すぎ、日本到着は18時30分とある。




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18.マドリード③(再び旧市街) [15/9北スペイン]



 [プエルタ・デル・ソル]

アランフェスからの帰りはアトーチャ駅をやり過ごし地下鉄のソル駅まで来て下車。レンフェ(スペインの国鉄)の近郊線C-3は地下鉄1号線に乗り入れているので乗り換えなしで来れる。

エスカレーターに続く階段を上って地上に出るとプエルタ・デル・ソル(Puerta del Sol)広場の真ん中だった。日本語では「太陽の門」となるがマドリードの街の中心であり、市内観光もここから始まることが多い。


「太陽の門」の名前は、15世紀頃のマドリードの最も古い市街を取り巻く城壁の門の一つとして、太陽が昇る東を向いた門であったことに由来するとのこと。


この広場、特別の見所があるわけではないが、いつも大勢の人で溢れている。
広場に入ると否応もなしに目に入る「カルロス3世」の騎馬像、マドリード市の紋章にある「クマと山桃」の像、東京日本橋にあるような主要街道の「ゼロkm起点」を示すプレートなどの周りは人だかりになっていて観光の定番だ。

広場の南側を通るマジョール通りを西に進めばこれまた必見の「マジョール広場」(Plaza Mayor)もすぐだが、ホテルが近いので一度部屋に戻って出直すことにした。

一息いれてから夕暮れの街を改めて散策し、適当なレストランを見つけてスペイン最後のセーナ(cena:晩飯)を取ることに。



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地下鉄ソル駅下車、
階段を上がって地上に出るとプエルタ・デル・ソル(太陽の門:Puerta del Sol)の広場だった。カルロス3世の騎馬像が目前に。





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広場自体はそんなに大きくはない。







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広場の真ん中に赤いひし形の枠に"Metro"の表示が立っていて、地下に下りる入口がある。






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マドリード市のシンボル「クマと山桃」の像の前で写真を
撮るカップル。





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国道の0km起点を示すマンホールの蓋のような石板プレート。






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直訳すると”放射状幹線道路の起点 0km" となるが、要するに "国道の0km起点"。






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ソル広場からの景観。正面左の通りがアルカラ通り、右側はマジョール通りか。






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北側の建物の屋上に有名なシェリー酒「ティオ・ペペ(TIO PEPE)」の看板(夜はネオンサイン)がある。昔からこの広場のランドマークになっている。最近知ったのだが数年前にアップル社のリンゴに置き換わったことがあったらしいが、市民の顰蹙をかって復元されたという。少なくとも15年9月にTIO PEPEは存在していた!





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ソル広場からホテルに向かう途中の歩行者天国、プレシアードス通り(Calle del Preciados)。






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プレシアードス通りを行くとグランビア大通りのカジャオ広場(Plaza de Callao)にぶつかる。





   [マジョール広場の辺り]

ホテルに戻ってさっぱりした後、改めて旧市街の散策に出た。
マジョール広場の手前で「サン・ミゲル市場」(Mercado de San Miguel)を見つけて入ってみた。昔は地元の青果市場だったらしいが、近年観光客を意識したお洒落なグルメ市場に変身させたらしい。

生ハム、チーズ、シーフード、スイーツなどの専門店が並び、持ち帰っても良し、その場で食べるも良し、バルもあるというフードコートのさきがけのようなものだ。

市場を出てすぐそば、東側になろうかマジョール広場があった。ちょうど宵の8時になりさすがに薄暗くなってきた。

市場を囲むポルチコ(柱廊)には歴史と伝統を感じさせる店やカフェが並んでいる。広場側のテラス席が晩飯の客で混み出すのはもう少し先か。

マジョール広場はかってマドリード最大の市場が開かれていただけでなく、闘牛やサッカーの試合、公開処刑まで行われていたという。そんな光景を広場に面した建物の住民が窓やベランダから見ていたのかと思うとちょっと興味深い。

広場を取り囲む建物はフェリペ3世時代の17世紀初めに完成したが、18世紀の大火で一度消失している。現在見ている4階建ての建物は19世紀中盤に完成したもの。

マジョール広場を出て夕闇迫る旧市街をブラブラし結局入ったレストランは、地下鉄1号線オペラ駅前広場に面した店だった。スペイン最後の夕飯なのでいつもより高級感のある店に入ったつもりだったが、味が特に良いわけでもなかった。



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マドリードのホテルは内装がちょっと変わっていた。壁一面が写真になっている。





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部屋の水回り。バスタブはなかったが、いろいろな個所からお湯が出る先進的なシャワーなど、それぞれの設備のデザインが斬新。




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ホテルから下ってくると地下鉄1号線のオペラ(Opera)駅のある広場に出る。王立劇場に面している。




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王立劇場(Teatro Real)の正面。


 



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日曜日、夕暮れ前のアレナール通り。歩行者天国の散策を楽しむ人たちの服装は気楽そのもの、飾らないスペイン人気質が出ている?




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きれいな石畳で歩き易い。




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アレナール通りからちょっと入ったところにある「サン・ミゲル市場」(Mercado de San Miguel)。






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2009年に観光客を意識した21世紀の洗練された市場として生まれ変わった。ソル広場、マジョール広場に近く値段はツーリストプライス?





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中に入ると、肉、魚、フルーツなどの生鮮食品店、惣菜店が豊富に揃っている。カウンターもあるので食前酒とタパスで小腹を満たすこともできる。





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ここはスイーツの店のようだ。




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サン・ミゲル市場側の門から薄暗くなりかけたマジョール広場に入った。





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広場の催しに見入る人たち。





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フェリペ3世騎馬像。広場整備を命じたのはフェリペ2世だが、建設はフェリペ3世時の1617年に始まった。





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現在見ている広場は1854年に完成したとのことだが、取り囲む建物の外壁があまり見かけないチョコレート色というかえんじ色なのは何故?





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マジョール広場からテアトロレアル(王立劇場)に向かって歩くと左手に教会の尖塔が見えた。






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この旅の最後の夕食で入ったのは、メニューの左上にあるTaberna Real(タベルナ レアル)という店。値段はそこそこ高い。前菜とメインをキチンと注文した。





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定食ではないので赤ワインのボテージャ(壜)を頼んだ。







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白いテーブルクロスは、店の格をそれなりに高くさせている(!?)





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何をオーダーしたのか思い出せないが、ワインと野菜と肉(?)の組み合わせは健康的に見える。





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レストランを出たのは10時少し前、ライトアップされた王立劇場が浮かび上がっていた。






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17.マドリード② (近郊の町、アランフェスへ) [15/9北スペイン]


 [アランフェスへ]

今日は2回目の日曜日、明日帰国するので実質スペイン最後の日になった。
以前来た時にマドリード市内はざっと周っているので、今回は近郊の「アランフェス」(Aranfuez)に行ってみることにした。

アランフェスといえば、ホアキン・ロドリゴ(Joaquín Rodrigo Vidre) が1939年に作曲したギター協奏曲「アランフェス協奏曲」を想い出す。特に第2楽章はその哀愁を帯びた美しい旋律をご存知の方も多いだろう。

3つの楽章からなるこの協奏曲はギターのためだけでなく管弦楽としても演奏されることも多く、過去にはジャズに編曲されて人気を博してもいる。

それはさておき、アランフェスはマドリードの南50kmぐらいか、むしろ荒涼とした景色が普通のスペイン中部地方だが、この辺りは心休まる穏やかな水郷地帯が広がっているためか、スペイン王室の保養地になったのだろう。緑濃いタホ川沿いに並ぶ王宮(Palacio Real)と庭園は世界遺産に登録されており観光地としても有名だ。

マドリードからはバスでも電車でも行けるが、今回は宿から近いアトーチャ(Atocha)駅を利用してrenfe(スペイン国鉄)の電車を選択。この駅は昔からマドリードの中央駅的存在だ。現在は、AVE(スペインの新幹線)が開通して以降高速鉄道や長距離路線の起点になっている駅舎と近郊路線ターミナルの駅舎に分離されている。

昔のアトーチャ駅で始発のプラットホームを覆っていた大鉄傘のかまぼこ型ドームは、AVEの開通後外観だけを残して植物園風に緑が配置され、巨大な待合室を中心としたスペースに変身している。

アランフェスへは近郊線C-3の地下ホームから乗れば44分で着く。今日は日曜日で本数も少なく駅も電車も閑散としていたが、平日のダイヤを見ると利用客が集中する7時台などはアランフェス発アトーチャ方面行きが9本もあり結構な通勤路線のようだ。





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タクシーで降りたところは、AVEのマドリード・プエルタ・デ・アトーチャ駅(Estación Madrd
Puerta de Atocha)の方。




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中を覗くと、昔プラットホームがあったヨーロッパの駅特有の建物は、植物園のような一角もある待合室に変わっていた。





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アランフェス行きの列車はこちら、近距離線が出ているマドリード・アトーチャ・セルカニアス駅(Estación de Madrid Atocha Cercanías)の方だ。





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キップはこの機械で買う。ゆっくり画面の指示に従って進めば難しくはない、後ろからせっつかれなければだが…。






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出発案内の横に近郊線の路線図もあって親切。




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駅ナカではないが、改札口近くで朝食を供する店を探す。





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カフェテリアのパンケース。





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アランフェス行きの列車からの景色。マドリードの郊外に出た辺り。





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アランフェスに近づく頃は田舎の田園風景(田んぼはないが…)真っ只中。





 [アランフェスの王宮と庭園]

アトーチャ駅を出た電車は次第に都市部の景色から田舎の田園風景へ移り変わっていく。40分そこそこでアランフェスに到着だ。

自動改札を通って駅を出て振り返ると、そこには”古都”アランフェスを象徴したような駅舎がドーンとあってびっくり。人口が5万に満たない小さな町には立派すぎる駅舎に思えるが・・・、やはりスペイン王室の威光がなせるわざか?

駅からトレド通りの緑の並木道をのんびり15分ほど歩くとアランフェス王宮が見えてくる。王宮はタホ川(Río Tajo)が蛇行する穏やかな流域の緑に囲まれている。

タホ川は延長1,000kmを超える大きな川だ。ここはまだ上流部だが、イベリア半島中央部を西に向かって流れトレドを通りスペインを横断後、ポルトガルに入るとテージョ川に名を変えてリスボンから大西洋に注いでいる。
、、
この王宮は王室の春、秋の離宮として18世紀後半に完成したのだが、当時すでにスペインの没落は決定的になっていたのは皮肉だ。
全体は沢山の部屋からなる居住部の宮殿と隣接する広大な庭園からなっていて、その佇まいは印象派の絵画を思わせる美しさではある。

宮殿内部は見学ができ、当時の王室の生活ぶりを垣間見れる調度・家具、衣装や移動に使われたワゴン型の馬車なども展示されていた。

また、森に囲まれた庭園は西洋式の左右対称型を基本に、植え込み、花壇、多くの泉や像で飾られていて水辺で舟遊びも出来たようだ。



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東京駅と見まがう(?)ような立派なアランフェスの駅舎。






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アランフェスの駅から王宮につながる石畳の道。




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途中にはこんな並木道も。その昔は王族の馬車が通ったのだろうか?




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ようやくアランフェス宮殿が見えてきた。





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アランフェス王宮の全体案内板。





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宮殿の前庭は広大な広場。




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宮殿中央部。






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よく見ると観光客も結構来ている。




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宮殿の前に広がるパルテレ庭園(Jardín del Parterre:芝生と花壇の庭園)。




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遠景の芝生と周りを花壇が取り囲んでいる。





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池にはカモ(?)が沢山。






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大きな噴水池、中央に彫刻群が配されている。この頃になって空が少し明るくなってきた。






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噴水の水しぶきの向こうに宮殿が顔を出していた。




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出口近くの彫刻の記念碑(?)。正面は王宮の宮殿。





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この立派な門から外へ。チップ目当ての男が奏でるアコーディオンの音が長閑な雰囲気を作り出していた。




 [川べりのレストラン] 

宮殿を出て庭園を散策、道なりで出口を出たのだが、後で地図で確かめると駅から遠くなる方向に出ていたようだ。それよりすっかり天気も良くなって気持ちの良い青空が広がってきた。

立派な門扉のある出口を出ると緑の美しい道路が続いていて、すぐ左手に「El Rana Verde」(”あおガエル”という意味か)というレストランがあった。雰囲気が良さそうなので入ることにした。

ちょうど13時近くになり昼食時の時間帯だが店は空いていた。メニューには1903年から開いているとあったからもう100年以上続いている伝統の店らしい。
この店はタホ川に面していて、川べりに近い席に着けば水面を眺めながらの食事を楽しめるはずだが、案内されたテーブルは生憎内側、良い席はリザーブされていたようだ。

しかし、こういう店でも定食メニュー(Menú del Día)があるのは嬉しい。
前菜、メインの2皿にデザート、飲み物付き、税込みで16ユーロだ。

地元産の野菜料理などの前菜と各種肉料理からそれぞれ一皿を選択し、デザートは、フルーツポンチ、チーズケーキ、お米のプディング、プリンなどから一品を選ぶ。さらにワインも付いていて言うことはない。

食事は勿論、長閑な雰囲気も楽しんでレストランを出たのは概ね14時だった。
少し歩いてからタクシーを拾い駅に戻った。

帰りの電車もガラガラ、この近郊線C-3はアトーチャ駅から地下鉄1号線に乗り入れている。
まだ時刻は15時半頃なのでアトーチャ駅で下りずにソル(Sol)駅まで行って下車、日曜日の夕方の旧市街をぶらつくことにした。




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パルテレ庭園を出てすぐ左側に「El Rana Verde」(”あおガエル”の意味)のレストランがある。





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「El Rana Verde」の店内。テラス席や川に近いテーブルは団体客でも来るのか、グラス類のセットが用意万端だ。




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「El Rana Verde」のテーブルから見るタホ川の対岸は緑が美しい。




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「El Rana Verde」のメニュー。前菜には地元菜園の野菜を使ったサラダ、ガスパチョ、キノコと小エビのパイなど、メインディッシュはマドリード風肉団子、ワイン味のキノコ添え豚のほほ肉、鶏のローストなどが並んでいる。デザートは本文に書いたとおり。





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ランチを終えて改めて「El Rana Verde」の店をパチリ。








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アランフェス駅に戻った。構内のホールは芸術性(?)を感じさせる造作だが、日曜日で閑散としているとは言え、こんな豪華な造りが勿体ない気もする、まあ余計なお世話か。






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renfeのマドリード近郊線C-3の時刻表。アランフェス始発は5時20分、平日は6時台が6本、7時台は9本まで増える。



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アランフェス駅の近郊線ホーム。





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折り返しになるのか、マドリード方面から来た列車が到着。




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やはり折り返すようだ。







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マドリード市街到着10分前頃の車窓。





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いよいよ市街に入ってきたようだ。





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帰りはアトチャ駅を通り越してソル駅で下りた。ソル駅の地上とつながっているエスカレーターでプエルタ・デル・ソル(Puerta del Sol)の広場に出られる。









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16.マドリード① (旧市街) [15/9北スペイン]

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バスはメセタ台地の平原を行く。




  [マドリードへ]

土曜日の朝、4泊したビルバオからいよいよこの旅最後のバス移動で最終目的地マドリードに向かう。ずっと利用してきたALSA社のマドリード行きには「普通」と「プレミア」の2種類があった。

マドリードまではおよそ350km、所要時間は「普通」で4時間40分、「プレミア」なら4時間10分とやや早い。「プレミア」ならさらに食事・飲み物、WiFi・TVなども付いていて言うことなしなのだが、当然値段も「普通」の倍近い。

持っていたチケットは10時発の「普通」で、残念ながら「プレミア」の乗り心地は試さず仕舞いだった。

さて、バスは定時に出発、南下してカンタブリア山脈を超えると曇っていた空も青空が拡がり、と同時に車窓は乾燥地特有の植生がやや貧相な大平原の景色に変わってきた。

この地形がスペインの気候風土を特徴づけている”メセタ”(Meseta)で、スペイン中央部は殆どが標高500~800mの台地状の広大な準平原になっている。

メセタはスペイン国土の2/3を占めていて、緩い傾斜で西のポルトガルまで続きマドリードはちょうどその中心部あたり、標高はおおよそ670mだ。

よく整備された高速道路は快適そのものだが、緩い起伏が続くだけの景色は単調過ぎる。さすがに飽きてきた頃、車窓はだんだんと都市近郊の風景に変わってきた。いよいよマドリードが近い?

バスは順調に走り切って予定の15時前にマドリードのアベニーダ・デ・アメリカ・バスターミナルに着いた。
このターミナルは発着場がすべて地下にあり、スペイン北部方面の発着を受け持っている。またバラハス空港へのバスもここからだ。

予約していたホテルは市内中心部で、地下鉄でも行けるがバスターミナルからは3kmほどの距離があり荷物のことも考えタクシーで向かった。




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すっかり馴染になったビルバオのバスターミナル。ALSA社のマドリード行きは結構本数があるが、プレミアと普通の区別があるので要注意だ。写真のバスは9:00発のプレミア便。普通の倍近くするがWiFi・TVを使えて食事・飲み物のサービスもある。



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待合スペースでバスを待つ人たち。





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ようやく Bilbao-Madrid を表示したバスが入線。





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カンタブリア山脈を超えると平坦なメセタ台地を走る。





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空を見上げると秋の雲が広がっていた。





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車窓にはマドリード近郊の産業団地の工場(?)が見えてきた、そろそろ市内が近い?




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マドリード郊外の不動産開発、住宅団地か?




  [ソフィア王妃芸術センター]

予約のホテルは、マドリード中心部の名の知れた観光スポットであるプエルタ・デル・ソル(Puerta del Sol)やマジョール広場(Plaza Mayor)、グラン・ビア(Gran Via)などにも歩いて行ける便利な旧市街にあった。

この辺りは結構起伏があって坂が多い。平らな台地が長い間に浸食されてこんな地形ができたのだろう。台地を走るグラン・ビアの大通りから低地にある王立劇場(Teatro Real)そばの地下鉄オペラ駅(Ópera、ホテルの最寄り駅、地下鉄2号線)へはちょっとした坂を下るのだが、ホテルはその途中にあった。

小じんまりしたシティホテルで壁や天井までモダンな写真で装飾された個性的な部屋だったが、設備・調度には何の不満もない。

一休みしてもまだ16時前、街歩きにはまだたっぷり時間がある。夕食が遅いスペインの午後は長い。まず出かけたのは以前マドリードに来た時に寄れずじまいになっていた「ソフィア王妃芸術センター」(Centro de Arte Reina Sofía)だ。
ここにはピカソの「ゲルニカ」(Guernica)があることで有名だ。

「ソフィアセンター」はそんなに遠くないのは分かっていたが、歩いて行くには道順と所要時間に自信がなくタクシーを頼んだ。

タクシーはまずグラン・ビアに出てアルカラ通りに入り、レアル マドリーの凱旋パレードで有名なシベーレス広場のロータリーを右折、プラド通りを少し下ってアトチャ駅の手前を右に入ると到着だ。

首尾よく助手席に座ったのでグラン・ビア大通りやシベーレス広場辺りを車中から写真を撮れたのはタクシーに乗った余禄か。

さて、ソフィアセンターは20世紀の現代アートを中心として特にピカソ、ダリ、ミロなどの作品を展示しているが、何と言ってもピカソの「ゲルニカ」を所蔵展示していることがウリになっている。


「ゲルニカ」とはスペイン北部バスク地方のビスカヤ湾に近い小さな町の名だが、スペイン内乱時の1937年4月26日、不幸にもフランコ反乱軍に加担したナチスドイツ空軍によって無差別空爆を受けてしまう。

共和国政府を支持していたピカソは当時パリに在住していたが、政府からパリ万博に出品する壁画制作を依頼されていた。その途上で残虐な空爆の現実を知るに及び、急きょ作品の構想を反戦意思を込めたものに変えて現存の「ゲルニカ」を仕上げたとされている。

発表当初の評価は必ずしも高くなかったが、第二次大戦後になると抵抗、反戦平和のシンボルとして徐々に評価が高まっていった。

作品は、1939年にパリから米国(ニューヨーク近代美術館)に渡り、フランコ政権が終焉した直後の1981年にスペインに返還された。
当初、プラド美術館に展示されたが、1992年の「ソフィア王妃芸術センター」開館時に現在の場所に落ち着いたという。



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乗ったタクシーの助手席から見たグラン・ビア大通りの景観。グラン・ビアは英語で言えばブロードウェーのこと、20世紀の初めに造られたマドリードを代表するメインストリート。今でも高級店、ホテル、レストラン、劇場などが軒を連ね賑わっている。




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同じくグラン・ビア大通り。アルカラ通りとの合流点近く。





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グラン ビアを東進し、右から来るアルカラ通りと合流するあたり。アルカラ通りをさらに左手に進むとアルカラ門がある。



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正面にシベーレス広場(ロータリー)のシベーレスの噴水が見えてきた。広場を取り囲んで市庁舎、スペイン銀行本店、リナーレス宮殿などがある。ここを右折してプラド通りに入る。この広場はサッカーのレアルマドリーが国際大会などで優勝した時に行われる凱旋パレードの最終地となることで有名。



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「ソフィアセンター」に到着。地味な外観だがそもそも美術館とはこんなものか。




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「ソフィア王妃芸術センター」の正面入り口。




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「ゲルニカ」は、縦 349cm、横 777cmの抽象画の大作で一部屋にこの作品だけが展示されている。作品の前に立つと曰く言い難い迫力に圧倒される。さすがに人気があるのか複数の警備員が付き間近には近寄れない。(撮影禁止のためWikipedia資料から)




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「ソフィアセンター」前広場。日はかなり傾いていて西日の当たる側だけが極端に明るい。




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センター右手にあった広場に面したカフェでカーニャ(生ビール:caña)を飲みながら一休み。




  [夕方のマドリード市街]

「ソフィアセンター」を出たのは17時半頃、天気が良いのでまだ十分明るい。
そばのカフェで一休み後、晩飯までの半端な時間で案内書にあったスペイン王室御用達というチョコレート店に行ってみることにした。

地下鉄5号線の Alonso Martinez駅近くのようだが、往きはタクシーで向かった。
その店は繁華街からちょっと中に入った静かな通りに面していた。落ち着いた店構えで土産に手頃な品が並んでいたので幾つか入手した。

帰りは地下鉄に乗ったら10分足らずで Ópera駅に戻ってきた。この駅のそばに王立劇場(Teatro Real)があり、さらにオリエンテ広場(Plaza de Oriente)を挟んだ
西側に広大な王宮(Palacio Real)が拡がっている。

ようやく日没の時間になり食事をオーダーできる時間帯になってきたので、オリエンテ広場前のテラス席のレストランで早めの晩飯にした。

周りのテーブルもほとんど埋まっていたが、暑くもなく寒くもない心地よい夕暮れのひと時、のんびり人生を謳歌している客を眺めているとこれが平和というものかと改めて想わせてくれる。



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緑の並木が美しいプラド通りをシベーレス広場方面に向かう。



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シベーレス広場の噴水が見えてきた。




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シベーレス広場のロータリーから望むマドリード市庁舎(旧中央郵便局、元々はコムニカシオネス宮殿)。よく見ると「REFUGEES WELCOME」と書かれた垂れ幕が下がっている。この時点で市は難民受け入れに積極的だった。




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メイン道路から一歩外れた閑静な通りに目的のチョコレート店はあった。道路の両側にテラス席を作ってのんびり土曜の夕方を過ごしている風景を見ると人生の過ごし方を改めて考えさせられる。




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スペイン王室御用達というチョコレート店の店先。





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地下鉄オペラ駅から地上に出ると王立劇場がある。





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王立劇場周辺。




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西日に照らされた王立劇場(左)、右にオリエンテ広場。中央奥のテラス レストランで晩飯を取った。




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西日が射して逆光だが、オリエンテ広場を挟んだ向こうに王宮の黒いシルエットが見える。





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土曜日の黄昏時のカフェ・レストラン。人生の楽しみは何かを教えてくれる情景だ(?)。






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どんな皿を注文したか今となってははっきりしないが、イカ墨のスパゲティを頼んだのは確か、味も確かだったのは記憶している。




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隣のテーブルはまだ食前酒の段階?












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15.ビルバオ⑥ (ビルバオ美術館) [15/9北スペイン]



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ビルバオ広場のロータリーに面しているビルバオ美術館(Museo de bellas Artes de Bilbao)。左の赤壁の建物が本館。



 [もう一つの美術館]

前にも書いたが、バスクの文化は独自性が際立っている。人種、言語、国民性などがヨーロッパの他民族とは勿論、スペイン国内で比べても全く異質。とにかく、バスク人はローマ人がイベリア半島を植民するはるか前からこの地に住んでいたというのだから異なった文化が発展するのも当然だ。

民俗学、言語学からみても謎が多いというし、バスクの人の血液型は極端にO型が多くB型が少ないとか、普通には珍しいRhマイナス型がなんと85%も占めているとか、何かの本でみたことがある。

スペイン人には、俗な表現で言えば、闘牛・フラメンコ由来の”情熱”とか、シエスタ(昼寝)から連想させる”緩さ”のイメージがあるが、バスク人の気質には誠実、真面目、緻密、知的、洗練といった表現がピッタリなところがあり、ステレオタイプのスペイン人像とは少し違う。

むしろ日本人に似ている所もあって、交通機関の時間の正確さとか街の清潔感などの面では同様の几帳面さを感じさせる。それは南スペインとは違う気候風土や古い歴史から由来するものなのだろうか。

さて、グッゲンハイム美術館から一度旧市街(Casco Viejo)に戻り、すっかり気に入った定食屋で遅い昼食を済ませて後、今度はビルバオ美術館(Museo de bellas Artes de Bilbao)に向かった。

直径約100mのまん丸いロータリー状の公園広場(Plaza Euskadi:ビルバオ広場)のすぐそばにある。この美術館、1914年の開館で、グッゲンハイム美術館が出現する前はこの町を代表する重要な美術館だった。

勿論、充実した内容でその役割は今でも変わりないが、例の市街地再開発プロジェクトの一環で04年新たに新館が加わり、中世・近代・現代の作品群が揃うことになった。

絵画、彫刻、デッサン、版画、装飾芸術などの分野で12世紀から現代までの約8,000点が所蔵されており、グレコ、ムリーリョ、ゴヤなどのスペインの有名画家に加え、多くの海外の作品が展示されている。
日本の歌川広重や国貞の浮世絵があったのには驚かされた。

入館は17時過ぎ、退館は19時半手前で外に出ると夕闇が迫っていた。



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ランチを食べに旧市街(Casco Viejo)に戻ってきた。ネルビオン川に架かる橋を渡って旧市街に入ると左側に見える由緒がありそうな建物。今は何に使われているのか情報がない。




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地下鉄のCasco Viejo駅前広場。





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地下鉄駅から宿に行く途中にあるプラサ ヌエバ(Plaza Nueva)という18世紀に造られた広場。四方の建物はなかなか豪壮で完成当初が偲ばれる。






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旧市街の狭い路を歩いていたら建物のシャッターにこんな写真が、銀行の広告らしい !?





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ビルバオ美術館の正門(Plaza Eukardi側になる)。






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入口の案内によると、開館は10~20時、入場料は一般7€、学生、65歳以上は5€など。





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館内は撮影禁止のため館内の一端をWikipediaから。中世絵画の展示室と思われる。






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広重の「東海道五十三次の図:府中」。まさかこんな所で広重に出会うとは!





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具象の彫塑(美術館ネット情報から)。




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ある展示室(美術館ネット情報から)。





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2階に上がって新館、旧館の渡り廊下からTorre Iberdrora(イベルドローラ タワー)が見えた。 




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美術館を出ると日暮れが迫っていた。





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入ったのと反対側に出る。すぐ前は広場になっていて、子供たちや家族連れが金曜日の夕方を楽しんでいた。





  [週末のバル通り]

まだお腹は空いていないので軽く飲むことにして、この町に来てから毎晩通っているアバンドのバル街(Ledesma Musikariaren通り)に向かう。こういう時は狭い街のお蔭でビルバオ美術館から少し歩くだけで行けるのは有難い。

まだ宵の口だが金曜日の夜とあってバルが立ち並ぶ通りは結構の人出だ。
早速アペリティーボにピッタリの牡蠣の店を見つけたので入ってみることにした。大西洋(ビスケー湾)に面したビルバオだから牡蠣の産地にも近く、こんな店があるのも不思議ではない。

店内は気持ちの良い木のカウンターがあるだけの小ぶりの店だが、外にはテーブル席もある。
片側は牡蠣の陳列ケースと調理台、壁にはセンス良くワインが飾られている。

壁の値段表によれば、
ガルシア(スペイン北西部地方)産とフランスものがあるようだ。ガルシア産なら1€から、フランスものは産地によって1.9~3€までと結構いい値段ではある。

生牡蠣にレモンを絞り辛口の白ワインで流し込むという食し方を一度やってみたいと思っていたのでまさしくその願いは果たせたが、注文したカキは実入りがイマイチで想像していた味には今一歩だった。

冬が旬と思われがちな生牡蠣だが実際は年中食べられるという。それでも今回の牡蠣はやっぱり時期でなかったのか、それとも高い牡蠣なら違ったのかも知れない。

牡蠣の店で食前酒は済ませたので別のバルで軽めの夕食を取る。
そこを出たのはちょうど21時だったが、週末金曜夜のバル街はこれからが本番といった盛り上がりで、店から溢れ出した吞み客が道を埋め尽くしていた。






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「Ostras」(牡蠣)の看板が出されている牡蠣の店。





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牡蠣は冷蔵ケースに入れられている。





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店内の値段表。スペイン北西部ガリシア地方産やフランスの各地方産で値段に差がついている。






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店員が牡蠣を皿に盛りつけ中。





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注文した生牡蠣、ユーロッパの牡蠣は日本より小粒で味はどちらかというと淡泊だそうだが…。






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とにもかくにも白ワインで生牡蠣を食することはできた。






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壁の棚に並べられたワイン。センスの良い棚飾りにもなっている。




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次に寄ったバル。地元の常連客だろう、彼らはまずテーブル席には座らない。必ずカウンターで立ったままタパス(この辺ではピンチョス)をつまみ1~2杯のワインを飲んでハシゴするのが普通。




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このお店は年配者が多かったが、どこでも老若男女区別なく普段着の自然体で呑んでいるのが印象的だった。






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呑み客でごった返すバル街の道路、金曜日の夜のビルバオ Ledesma Musikariaren通り。


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14.ビルバオ➄ (グッゲンハイム美術館) [15/9北スペイン]

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グッゲンハイム美術館はネルビオン川が大きくカーブした突端に建っている。昔、造船所があったあたりという。ある批評家はその姿を”幻想的な夢の船”と評した。(資料映像から)



 [グッゲンハイム美術館の生まれは]

昨日はラグアルディアからのバスが現地発19:50しかなく、ビルバオの宿に戻ったのは22時過ぎだった。田舎に出た時は帰りの便に要注意だ。

一夜明けて今日はビルバオ最終日、明日はマドリードに出ることにしている。だから今日はどうしてもグッゲンハイム美術館に行っておかなければならない。

今やビルバオのシンボル的存在で、「グッゲンハイム美術館を見ずしてビルバオを語るなかれ」という状況になっているからだ。

町が小さいので多分歩いても行ける距離だが近くまでタクシーで向かった。
この美術館を理解するためにはビルバオの都市再開発の話から入る必要がある。

ビルバオのあるバスク州は1960から70年代、重工業がめざましく発展したのだが、80年代に近づくと工業都市としての産業基盤が急速に衰退していった。

当時の港湾施設はネルビオン川の河口から15km上流のビルバオ中心部まで延びていて、そこを船舶が遡航するため右岸、左岸を結ぶ橋の建設もできず、両岸が長い間分断された状況が続くという地域の事情もあった。

こんな中で、衰退した地域経済を活性化させるためにビルバオ市は都市再生プロジェクトを構想した。
その中核となったのはビルバオ市の外港設備の拡張計画だ。当時都市中心部にあった港湾設備を撤去・移転しその跡地を再生するというプランで、グッゲンハイム美術館の建設はその目玉だった。

都市の中心部を占めるこの地区は約35万㎡の広さ、今ではとても想像できないのだが、近年まで港湾施設やコンテナ用の鉄道駅、造船所が立地していたという。現在は以下に載せた写真で見るように、緑の都市公園の中にグッゲンハイム美術館、ホテル、ショッピングモール、高層事務所ビルなどが佇んでいて、昔の面影はまったくない。

このように、グッゲンハイム美術館はビルバオ市を中心とした都市再生プロジェクトの一要素に過ぎなかったが、美術館建設と並行して数々の官民共同プロジェクトも推進され、1997年に開館した同美術館事業は見事に成功を収めている。

このビルバオ市の創造都市プロジェクトは、世界に数多ある類似事例の中で最も成功したケースとして今ではとても有名だ。



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グッゲンハイム美術館に近い街中、落ち着いた控えめな雰囲気がとてもいい。





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目的地近くまできた、洗練された街並み。





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同上。




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ロータリーの花壇もよく整備されている。




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Alameda Mazarredo通りという幹線道路。



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左側にイベルドローラ タワー(Torre Iberdrora)が見えてきた、そろそろ目的地は近い。





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Alameda Mazarredo通りの向こう側に花の植え込みで造られた子犬のパピー(後述)が見えてきた、さらにその左奥にグッゲンハイム美術館の建物が見えている。




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さらにパピーに近づく。





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左手には高層タワーが輝いていた。i のマーク塔が立っているので近くに観光案内所があるようだ。




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パピーの前に到着。




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美術館手前のAlameda Mazarredo通りの街並み。



 [グッゲンハイム美術館へ]

目的地の少し手前で車を降り、Alameda Mazarredo通りを横切って美術館に向かう。左手には青空に映える電力会社の高層ビルが見える。前方に見えるグッゲンハイム美術館(Museo Guggenheim Bilbao)は、まるで積木を無造作にころがしたような外観で、建物自体が100%現代アートの作品になっている。

入口の手前では花の衣装を纏った番犬(!?) ”パピー”が出迎えてくれる。
米国のアーティストが92年にドイツで制作した作品だそうだが、その後グッゲンハイム財団が購入し当美術館の前面に設置したとのこと。

高さ12mの犬型をした鉄の骨組みにパンジー、ベゴニア(らしい?)などの花々を植え込んだ巨大な盆栽のような立体造形物だが、水や施肥、日照などのことを考えると手入れは大変だろう。

この美術館はニューヨークにあるグッゲンハイム美術館の分館のひとつで、米の建築家、F・ゲーリーが設計している。

ゲーリーは「曲面の無規則性が光を集めるように設計した」と述べていて外観には全く平面が見られない。当初、ニューヨークの評論家は魚の鱗を連想させてきらきらと反射する外観について、「チタニウムの外套をまとい、うねるような形状の幻想的な夢の船」と表現している。

緩い下り坂を下って半地下になった入場口で入場券を購入、手荷物を預けてゲートをくぐると内部は3階まで吹き抜けのアトリウムのようなホールになっている。
そこからはガラス越しにネルビオン川と対岸の緑の山地を背景にした街並みが見渡せる。

鉄枠のガラス越しに日の光がふんだんに射し込み、外に見える緑と街の景色は鮮やかだ。バロセロナで訪れたガウディのカサ・パトリョの窓越しの景色を思い出す。

美術や造形の分野に興味がないわけではないが、この美術館で現代美術、コンテンポラリーアートを見せられると改めて自分にはその方面の素養は全くないことが分かる。館内では常設、特設の展示が行われていたようだがひととおり雰囲気だけは味わって退館、周辺プロムナードにある有名な蜘蛛のオブジェなどを眺め美術館を後にした。



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何とも表現し難い外観、それが前衛的ということか。





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パピーの手前を歩く女性と比較すると、この子犬(!?)が如何に大きいかが分かる。高さは12m強。




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緩い下りの通路を進むと半地下の美術館入り口に行き着く。






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これが、「チタニウムの外套をまとい…」と言われた部分だろうか、全て曲面で構成されている。






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美術館内部1Fの入場ゲートあたり。吹き抜けになっている。



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成程、”アトリウム”とはこのことか!ガラス越しに川を挟んだ対岸の街並みが見える。





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見上げると2階、3階の通路にも人が見える。





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1階の奥にあるこの造形作品の意図するものは? 何も感じ取れないのはフツウ?オカシイ?




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それを眺める(鑑賞する)人達。




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3階から見下ろすネルビオン川と川向うの景色。バックに緑の丘陵が続き川沿いの街並みとのコントラストが美しい。





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同上。3階へはエレベーターで上られる。






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入場する時1人ひとりに渡されるイアホーンで説明を聴けるAudio Guideだが、日本語による説明はなく使い勝手はイマイチ。





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1階では分からなかった造形作品の全貌が3階からは見ることができる。とは言っても依然として何を表現しているのか分からず。




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こんな展示もあったが…






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3階から1階のホールを見下ろす。





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3階から2階につながる通路からの景色。造形美が計算されている。





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こんな光の演出も。




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出口を出て振り返ると美術館の外観はこんな感じ、構造が複雑すぎる(?)。




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美術館とネルビオン川の間の遊歩道にもこんな作品が、




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フランスの彫刻家、ルイーズ・ブルジョアの蜘蛛シリーズ作品として有名らしい。画面右上はネルビオン川を跨ぐサルベ橋。



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サルベ橋は両側歩道付き5車線の鉄製吊り橋。名物の赤い橋脚の向こうにグッゲンハイム美術館がある。(資料映像から)





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「蜘蛛」のオブジェは人気がある。




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帽子を路上に並べて売っていた。店番がどこかに行ってしまってるみたいだが帽子のセンスは悪くない。




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グッゲンハイム美術館の北西(上流側)の河畔にイソザキ・アテア(磯崎ゲート)がある。磯崎新と地元の設計家によって計画・設計・建設された高層住宅を含む複合ビル開発。これもビルバオ市の創造都市プロジェクトの一部。(資料映像から)



 


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13.ビルバオ④ (ワイナリーの町、ラグアルディア) [15/9北スペイン]


 [ワインの里へ]

スペインワインと言えばリオハ産、ワイン店でスペインのワインを選ぶとき、ラベルに "Rioja" という産地名があればまず本格的な味が保証されていると言えるだろう。

今日はワイナリーの町、ラグアルディア(Laguardia)に行く予定だ。
ビルバオに着いた一昨日の夜、アバンドの観光案内所で教えてもらった町だが、スペインワインの名産地リオハ(Rioja)地方の真っ只中にある。

まずは9時少し前に宿を出て地下鉄でバスターミナルへ。切符売場で壁の時刻表をみると、ラグアルディアへはリオハ地方の中心都市ログローニョ(Logroño)行きに乗れば途中で通るらしいことが分かる。ちょうど具合よく10時発があり、その切符をゲット。

この旅に出る前はビルバオに行けばきっとワイナリー巡りの日帰りツアーに気軽に参加できるのではないかと思っていたが、観光案内所のアドバイスは路線バスでラグアルディアという町に行けばワイナリーを見学できるということだった。

後に日本に戻ってからネットでチェックすると、ビトリア(Vitoria)・ラグアルディア方面のワイナリーを巡る日帰りツアーの紹介があったから全くないわけでもない。ワイナリー自体は立派な観光資源のはずだからワイン観光がもっと気軽に楽しめる体制があってもいい気はするが、単にこちらの情報不足だけかも知れない。

何番線からバスが出るのか直前まではっきりせずバタバタしたが、とにかくログローニョ行きに乗車でき、10時の定時に出発した。





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ビルバオのバスターミナルの切符購入窓口。朝9時過ぎでまだ客はまばら。




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購入したラグアルディア行きの切符。枠内の上から出発地:ビルバオ、目的地:ラグアルディア、乗車日:15年9月10日、出発時刻:10時00分、座席:1号車15番、サービスタイプ:普通、基本税率:11.23%、運賃(税込み):12.35€、路線名:ビルバオーログローニョ線、 などと記載されている。




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バス乗り場へはひっきりなしにバスが入ってくる。




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15番線、16番線のバス乗り場。





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三々五々バスを待つ人たち。

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10時近くになって切符売り場の窓口も混んできた。




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出発時刻が近づきようやく乗るバスが入線してきた。




 [ラグアルディアへ]

 ラグアルディアはビルバオの南約80kmにあり、もう20km行けばログローニョだ
ビルバオを出るとすぐに街並みが切れ、車窓は緑の草原というか緩い緑の丘陵に変わった。生憎曇り空のうえ、窓には遮光シール(?)が張られていて見える景色はすべて青っぽい。

途中1時間ちょっと走ってビトリア(だと思う)で小休止、その後両側に拡がるブドウ畑を見ながらしばらく走り、小高い丘を登りきると城壁らしい黄土色の石壁の前で停まった。そこがラグアルディアのバス停、所要時間は1時間40分だった。

人口が
1500人ほどの小さな町で、”城砦”と”ワイン”で知られている。
ラグアルディアがある小高い丘は昔から地形的に戦略的価値があったようで、13世紀に築城された城壁は、南の”カスティージャ王国”に対峙する”ナバラ王国の番人(guarda de Navara)” と呼ばれてきた。

4つの城門(数え方によっては6つ)をもった城砦は19世紀の内戦時ひどく破壊されてしまったが、一部はまだ良い状態で残されている。

バス停は城壁に沿って外側にあり、城砦内部にある市街地へは最寄りの城門をくぐる必要がある。バス停そばのどっしりしたアーチ状の門を抜けると突然眼前に中世の石造りの街並みが現れ、一瞬にして数百年前の世界に迷い込んだ錯覚を覚えさせてくれる。

この町の見所は歴史的な史跡だけではない、もう一つの売りはワイン造りだ。
エブロ川の左岸流域でのブドウ栽培は、夏の南からの熱波と冬の北からの寒風を南北の山地が遮るという地理的、気候的な自然条件に恵まれ、それに地域が育んできた長い伝統が加わって美味しいリオハワインを造り出している。

まず向かったのはラグアルディアの観光案内所。見学できるワイナリーを教えてもらいに寄ってみた。結構混んでいたので順番がくるまでしばらく待ったが、カウンターのお嬢さんは街の案内図に見学させているワイナリーをマークして渡してくれた。

しかしここでちょっとした思い違いに気が付いた。教えてくれたのはいずれもこの中世の街中のもので、広々とした丘陵地に拡がるブドウ畑に囲まれたワイナリーのイメージとは違う、どうもこちらが勝手に思い込んでいたワイナリーではなくボデガ(醸造所)のようだ。

元々ぶどう畑はこの街の西から南方向に拡がる広大な低地にあり、現代の大きなワイナリーはその畑の中の施設でブドウ苗木の栽培から取り入れ・発酵・圧搾・樽熟成・ビン熟成、そして観光客を相手にする
レストランや土産店まで一貫した体制を取っている方式が一般的だ。




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バスの車窓(遮光シールが貼られていて写真は青味がかる)から。左手山頂部には石灰岩層が露出している。




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長閑なブドウ畑の丘陵が続く。

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途中でRioja Alavesa地方の「Arabako Errioxa」という集落を通過。

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ラグアルディア到着20分前あたりのぶどう畑。

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ラグアルディアに到着する手前で見えた街道沿いのワイナリーの施設。「BODEGAS Garcia de Olano」とあるが、レストランやワイン販売所もあるようだ。

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ラグアルディアのバス停。乗ってきたログローニョ行きのバスが停車中。左側が城砦で門をくぐれば中世そのままの市街に入る。

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城砦に沿ってカフェのテーブルが出ている。

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城砦をくぐる手前の壁に観光案内所の案内図があったのでまずはそちらに向かう。

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こちらは市街全図。




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観光案内所は結構人の出入りが多かった。



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担当者は一人で忙しそう。




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隣のスペースには恐らくラグアルディア産だろう、ワインのボトルが陳列されている。



  [中世の街中ワイナリー(ボデガ)]

城砦内の街は小じんまりしたもの。狭い小路で迷路状の街中は15分か20分もあればあらかた一回りできそうだ。マークを付けてもらったマップを頼りに小路の探索を始める。

後で読んだ資料によると、この街には昔は300以上の地下トンネルのボデガ(bodega:醸造所、地下の酒倉、ワインセラーなどの意)があったという。それらは数世紀に亘り地下の設備でブドウの破砕・発酵・圧搾・貯蔵等が行われていたほか、食料の保存倉庫としても使われていたというが、今でも操業しているのはほんの一握りらしい。

いくつか回った中で、「El Fabulista」というボデガが見学を受け付けていた。このボデガは醸造所の操業を続けながら観光見学も受け入れているようだ。
30分後の13時スタートで見学ツアーがあるというのでその場で申し込んだ(7€)。その際ガイドの言語を西語か英語か選択せよとのことだったので西語にしたのだが…


改めて13時に行ってみると10数人のグループと一緒にされてしまった。彼らは英国人(北スペインー英国間には定期フェリーもあり英国からの旅行者は珍しくない)らしく
英語をしゃべっていて必然的に英語によるガイドになってしまった。(まあどちらにしても大差はないが……)

まず入口の前で案内してくれた女性からこのボデガの概要、歴史(多分?)の説明があった後、建物の中へ。入った最初の部屋には実際の操業で使われている機械器具類が雑然と並べられていたが、反対側に漏斗状の四角いホッパーがあった。恐らく運び込まれたぶどうを投入し下底で破砕・圧搾する装置だろう。

その後狭い階段を降りて地下7mの暗いトンネルに案内された。地下の岩質は堅固で採掘が比較的容易な砂岩層ら
しく、一部のレンガ部分を除けば殆ど支えなしで何百年も保たれているのは驚きだ。
この地下空間で醸造作業や樽熟成が行われてきたのは、特段の設備なしで常に気温が12~14℃で年中一定していることが徹底的に重要とのことだった。




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こんな城壁内の景色は恐らく何世紀も変わってないのではないだろうか?






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狭い小路でもカフェは道路にテラス席を出している。





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歩いていると石壁に「カサ プリミシア」という表示があった。プレートによると15世紀の古いワイナリーの建物のようだ。



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ボデガ内部を見学させている「El Fabulista」。13時からの見学ツアーを申し込んだ。









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「El Fabulista 」の入り口前の看板。「会員ボデガ」、「Rioja Alavesa地方のワインルート」の表記のしたに見学ツアーの時刻が書かれている。平日は11:30,13:00、17:30、19:00の4回。




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「El Fabulista」のボデガの前で女性のガイドさんがこの醸造所の歴史などを説明。ツアーの参加者は英国人(?)らしく説明は英語だ。





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中に入ると右手に大きなホッパーがあった。収穫されたブドウが投入され地下で除梗・破砕が行われる。




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狭い階段を降りて地下7mのトンネル部分へ。





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地下にはかなり広めの部屋もあり、試飲できるスペースがあった。照明効果もあり面白い雰囲気だ。




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当ボデガ産ワインのテイスティングをしたが、とても苦かった記憶がある。




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英国人(?)ツアーの参加者。





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ツアーを終えて「El Fabulista」の前で。醸造所の殆どの施設は7m下にある延べ600㎡の地下空間にあり、その地下道は道路の下にも伸びているらしい。



 

  [さらに市街散策]

小1時間で見学ツアーを終了し、遅めの昼食にしようと今朝通った城門近くのレストランに入った。
例によって日替わり定食から選択したが、残念ながら塩味が濃くちょっと閉口した。今回の旅ではこんなことは初めてだったが、この店ではWi-Fiがつながったのでしばしスマホを楽しむことができた。

レストランを出て再び中世の時代を思い起こさせる街並みを散策する。
途中見学させているもう一つのボデガを見つけ、スペイン語の解説で真っ暗な地下のトンネルを歩いたが、地下はどこも同じに見える。

このボデガで記憶に残っているのはオーク樽やビンによる熟成期間の話だ。

スペインワインは一般に熟成期間の長さで品質分類されているのだが、ラベルにグラン レセルバ(Gran Reserva)の表示があれば最低14年経ているとのことで最高級品だ。

また、レセルバ(Reserva)の表示なら熟成期間は6年以上、期間のやや短いクリアンサ(Crianza)でも4年の熟成が必要とのことでそれぞれ十分に高い品質が保証されているわけだ。

再び街に戻り南側に進むとちょっとした展望台に出た。ようやく青空が出てきたものの、既に夕方が迫り日は傾いていたがこの町が高台にあることがよくわかる。

眼下にはエブロ川左岸の平地にブドウ畑が延々と拡がっていた。その大パノラマを眺めていると、これが "ワインの里、リオハ" であることが改めて納得できた。



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昼食で入ったレストラン。ここではWi-FiのIDを教えてもらいスマホが使えた。





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日替わり定食(Menú del día)を頼んだが、全体的に塩味が強くイマイチ。




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昼食後再び市街を散策する。




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どこの道を撮っても同じような写真になる。





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途中で一休みしたカフェ。バックの黄土色の石積みの壁がなかなか良い雰囲気だ。




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同上カフェ。



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どちらかというと暗っぱしい市街から南方向に向かうと家並みが途切れて眼前が開けた。町がある高台の下にはブドウ畑の景色が一面に広がった。



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夕方近くになって青空が出てきた。リオハの穏やかなブドウ畑の景色を目に焼き付けた。





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町の南側展望台からの眺望。現地に展示されていたパノラマ写真を撮影したもの、上の3枚の写真を横につなぐと実際のパノラマ写真になる。この町が丘陵地にあることが分かる。









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街の南側でサン フアン教会(Igresia de San Juan)の前に出た。写真はゴシック様式の鐘楼(canpanario)。地上部は城砦の門の一つで城外とつながっている。




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城門の横壁に次の標語が架かっていた。「辿りついた者には安息を、住民には健康を、旅立つ者には幸運を!」。





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城門をくぐって外に出るとバス停のある街道だった。




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ようやく帰りのバスが来た。BILBAO-LOGROÑO間は一日2往復しかないので要注意だ。




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車内はガラガラ。




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ラグアルディアを出て5分の車窓、もう20時だがまだ明るさが残っている。


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12.ビルバオ③ (ビスカヤ橋) [15/9北スペイン]


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上は好天時の世界遺産「ビスカヤ橋」全景(Google mapから)、下は今回訪れた時に撮ったもの。時刻は夕方、しかも生憎の曇天だった。


 [定食屋]

バスク博物館から宿までは5分。一度戻って小休止後、昼食の時間帯に合わせて宿を出た。途中でお昼を済ませてから世界遺産の「ビスカヤ橋」(Puente de Viscaya)を訪ねる予定だ。

「ビスカヤ橋」はビルバオの都心からネルビオン川を10kmほど下った河口の近くにある。でも宿の最寄り駅「カスコ ビエホ」からは地下鉄一本で行けるのでそんなに距離を感じさせない。

地下鉄駅の辺りは小さな広場になっていて、いつも下町を思わせる賑やかでのどかな雰囲気なのだが、そこを取り囲むようにレストランバルの店が何軒か面している。その一軒の前に貼り出されていたメニューを覗いていたらカルボナーラの活字が目に入ったのでそこに入ることにした。

実はこれが大当たり!! レストランというよりバルが一緒になった「定食屋」といった風で地元の人達しか入らないような店と見受けたが、味も値段も言うことなしでこの後何回かリピートすることになった。以下、店先に貼ってあったメニュー(下の写真参照)を紹介すると…

  **************************************************
       今週のメニュー

     第一の皿:(前菜、以下から一品をチョイス)

  ○ イベリコ豚のハム付きメロン
  ○ ズッキーニのクリーム煮、ヒツジ乳のチーズ添え
  ○ 目玉焼き付きキューバ風ライス
  ○ ベーコンと野菜のソテー
  ○ カルボナーラパスタ
  ○ 自家製フルサラダ

      第二の皿:(主菜、以下から一品をチョイス)
 
  ○ 鶏もも肉のロースト、フライドポテト添え
  ○ 鉄板焼き風シュラスコ、付け合わせ付き
  ○ 子牛肉のビフテキ、ジャガイモとピーマン添え
  ○ バスク産ソーセージとジャガイモ付き目玉焼き
  ○ 温野菜添えサーモン
  ○ 日替わり魚料理、レタス付き

  自家製デザート+飲み物(ワイン、水またはジョッキのビール)付き
  10.95ユーロ(消費税込み)

  ハーフメニュー1(第一の皿のみから1品のチョイス)…… 6.95ユーロ
  ハーフメニュー2(第二の皿のみから1品のチョイス)…… 7.95ユーロ

  **************************************************

日本語に直すとザッとこんなところだが、下町の食堂みたいな店で地元の人たちがどんなものを食べているのか想像できるのは楽しい。それにしてもこのランチセット(勿論、パンは付いている)をこの値段で食べられるのは少し羨ましい。



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地下鉄「カスコ ビエホ」駅前の広場。広場に面してカフェ、レストランがテーブルを出している。入ったレストランは画面右端あたりの店。




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入ったレストランだが名前もはっきりしない。入口右側はスタンドになっていて、テーブル席は奥に入った2階。入口左脇にメニューが出ている。




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店先のメニュー、(画面上でクリックすると拡大、本文に拙訳あり)。





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「バスク産ソーセージとジャガイモ付き目玉焼き」の皿。
 




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「ベーコンと野菜のソテー」(?)と思うが…





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イタリア語でいうリガトーニだろうか?   ショートマカロニパスタのカルボナーラ。味は良かった。





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デザートのプリンとアイスクリームの盛り合わせ。





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別の日に寄った時のピンチョスとワインの組み合わせ。





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駅近くにあった青果店。果物の種類は豊富だ。






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プラム(もいろいろある)が0.99€/kg とは安い!



 [ビスカヤ橋へのルート]

現在のビルバオの町は14世紀初頭にネルビオン川沿いに商業地として建設されたのが始まり、その後スペイン北部で重要な港をもつ都市として発展してきた。河口までの15km間は航行可能なことが特徴で、都市域は下流のビスケー湾に向かって拡大を続けた。

結果、左岸(バラカルド、セスタオ、ポルトゥガレテなどの地区)は工場群(鉄鋼・金属加工・造船)やその労働者の居住地区となり、右岸(エランディオ、レイオア、ゲチョなどの地区)は工場経営者の居住区となった。

こんな背景から、地下鉄路線はビルバオ市街とネルビオン川沿いの町々をつなぎ河口部まで延びているのだが、ビルバオを出て地上に出ると左岸を走るL2号線と右岸のL1号線とに枝分かれする。地上を走る両線とも昔は通勤鉄道だったという。

目的の「ビスカヤ橋」はポルトゥガレテ地区とゲチョ地区を結んで架かっている。
カスコ ビエホ駅を出た電車は15駅目のポルトゥガレテ(Portugalete)駅で下車、30分弱だ。天気のせいもあるのだが、少し寂れたようなポルトゥガレテの旧市街を眺めつつ緩く下っていくとネルビオン川にぶつかる。件のビスカヤ橋はすぐそばに聳えていた。



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ポルトゥガレテ駅を出てネルビオン川に架かるビスカヤ橋方面に向かう。繁栄の時代は過去の栄光となったのか、やや寂れた感のあるポルトゥガレテの街中。



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川沿いの道路に出ると「ビスカヤ橋」が見えてきた。




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「ビスカヤ橋」を背中にして下流(河口方向)を望む。対岸はゲチョ地区でやはり都市化した市街地が拡がっている。釣り人一人、何が釣れるのだろうか?  





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120年以上前の鉄構造部の偉容はさぞかし迫力があっただろう。ポルトゥガレテ側からゲチョ側を望む。





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橋脚に近づいていくとそれなりの迫力がある。





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左側からくるゴンドラが到着するデッキ。





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ポルトゥガレテ側の鉄塔脚部。












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工場経営者層の住居地区という対岸(右岸)のゲチョ地区。





 [ビスカヤ橋]

「ビスカヤ橋」(Puente de Viscaya)は、ビルバオを流れるネルビオン川の河口付近にある世界最古の運搬橋として今も現役だ。エッフェル塔を建設したエッフェルの弟子でビルバオ出身のアルベルト・デ・パラシオが設計し、1893年に完成している。

上流にあるビルバオに向かう海上交通の妨げにならず、また長い取り付け道路も必要ない方式を模索した結果、吊り下げられたゴンドラで人や車を運ぶ運搬橋がその解決策となったわけだ。現在この方式の橋は仏、英、独、そしてアルゼンチンにもあるそうで世界で5橋だけが現役稼働中とのこと。

運搬橋の長さは164m、橋桁の高さは水面から45m。ゴンドラは当時画期的と言われた軽量鉄ケーブルで吊るされ、6台の自動車と300人ほどの人間を乗せて2分弱で渡ることができる。

19世紀末に完成・開通した当時はゴンドラ方式の斬新なアイディアと圧倒的な鉄構造物の偉容に地元民はさぞかし仰天し誇りにも感じたことだろう。

現在、生活者の足として利用されているので料金は片道40円ほど。望めばエレベーターで昇って橋桁からの眺望を楽しむことも出来るが、こちらは観光客価格で5€だったか?



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対岸からゴンドラがやってきた。





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さらに近づいてきたゴンドラ。中央部に車両を載せ、両サイドの車両状の箱に人間が乗っている。ゴンドラを吊っているワイアーがうっすらと見える。





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ゴンドラ内部に貼ってあったポスター。「ビスカヤ橋:遺産と前進」、「120周年記念、1893-2013」とある。開通120年を記念して作られたものか?





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ゴンドラ上の乗客はこんな車両(?)に乗っている。反対側の車両から。





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犬を連れて待つ乗客






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ポルトゥガレテ側のエレベーターで橋桁に昇ってみた。到着すると幅2mほどの廊下状の通路になっていて、反対側まで歩いて行ける。(この日は反対側のゲチョ側エレベーターが止まっていた。)通路両側の手すりは粗目な金網で保護されている。


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50mの高さからネルビオン川の上流側を望む。ここから約10km先にビルバオの街がある。夕刻かつ低い雲が垂れ込め視界は効かないが、左岸遠方は工場地帯のようだ。





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こちらは下流側(河口方面)。左岸遠方は港湾になっていて港湾施設のクレーンが霞んで見える。右下はゲチョの市街になる。





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ポルトゥガレテの街並み(左岸上流部)を50mの高さから。





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金網にポルトゥガレテの案内板があった。









 




 


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11.ビルバオ ② (バスク博物館) [15/9北スペイン]


  [朝の散歩]

一夜明けてビルバオ2日目、快晴だ。日の出が7時半頃でとにかく遅い。
散歩を兼ね、朝食を食べに昨夜行ったアバンド界隈に行ってみる。

観光案内所「TURISMO」の辺りにはメトロ、トラム、少し入るとサンタンデールとつながる私鉄、そして国鉄などの各アバンド駅が集中しているし、スペインの大手銀行BBVA(ビルバオ・ビスカヤ・アルヘンタリア銀行)の本店をはじめオフィスビルも多く、ビルバオのビジネスセンターといったところだが、朝8時半の仕事開始の時間帯にしては思ったほどの人通りはない。
日本の朝のラッシュアワーのような人の流れを想像していたが、そんな風景はまったく見られなかった。

この散歩で改めて確認できたのは、泊まった宿は旧市街に入った所にあり、カスコ ビエホ(Casco Viejo:旧市街の意)という地下鉄駅に近くどこに行くにも至便だということだった。



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宿を出るとネルビオン川を渡る橋のたもとまで1分。もう8時半が近いのに川沿いの東向きの建物にはまだ朝日が当たっている。その分日没は遅いのだが…




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ネルビオン川の橋上から上流側を望む。左岸の道路下は私鉄の駅になっている。川自体はそんな大きくはないが、この橋には"Areatzako"橋というバスク語起源らしい名前がついている。どう発音するのだろうか?




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橋を渡ってアバンド地区に入ったところに街灯のような温度計が立っていた。エル・コルテ・イングレス(デパート)の宣伝の下に16℃の表示。9月上旬朝8時半の気温だが、体感的には寒さは感じない。この後は23~4℃の快適な気温まで上がっていく。





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朝食で食べた大きなクロワッサン。



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アバンド通りに近い鉄道駅そばにあるスペイン第二の大手銀 BBVA の本社ビル。




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散歩からの帰り、橋上から見る上流右岸の旧市街方向を見る。手前の建物の奥にビルバオ大聖堂(Catedral de Santiago)のゴシック式尖塔が顔を出しているが残念ながら訪れていない。




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橋の上で振り返ると今行ってきたアバンド界隈が朝日に照らされている。




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この橋の先は旧市街地区(Casco Viejo)になる。こうやって見るとなかなか重厚な街並みだ。突き当りの建物の4階に泊まっていた。



 [バスク博物館]

午前中に翌日予定しているワイナリーの町に行くバスの出発時刻を調べにバスターミナルへ出かけた。往きはトラム、帰りは地下鉄でカスコ ビエホ駅に戻ってきたが、街が小さいので大して時間はかからない。

昼飯まで中途半端な時間が残ってしまったので「バスク博物館」(Museo Vasco 因みに高齢者は無料)に寄ってみた。

ここで「バスク」について基本を押さえておこう。
「バスク地方」とは、大雑把に言ってピレネー山脈を挟んで大西洋(ビスケー湾)に面したスペイン北東部とフランス南西端の地域をいい、スペイン側ではサン・セバスチャンやビルバオの町がその中心だ。

この地域に居住してバスク語を話す人達を「バスク人」と呼ぶ。系統不明の民族と言われ、古代ローマ時代のそのはるか前から先住していた彼らは、中世には漁師として大西洋に繰り出しタラ漁や捕鯨を行っており、大航海時代になると航海者や植民者として南北アメリカに渡った者も多い。

彼らの固有の言語は「バスク語」で、現在その話者(普通は西語または仏語も話すバイリンガル)は約60万人程度と言われる。バスク語はその祖先を遡っても親戚語が存在しない孤立した言語と言われている。

そんなことから世界でもっとも難しい言葉と言われることが多く、中世フランスでバスク語を勉強させる刑罰があったというくらいだ(!?)。もっともその次に難しいのは日本語だそうだが…

さて、博物館は駅と宿の中間にありカスコ ビエホ(旧市街)の真っ只中にある。表から見ると何の変哲もない古めかしい石造りの建物に見えるが、昔のカトリックの神学校を改装したものとのこと。

入口を入って受付けを抜けると芝生のパティオ(中庭)に出る。その周りは回廊がぐるりと取り巻いており、それに沿った3~4階までの部屋の大半が展示室として使われている。訪れた時は殆ど訪問者も居らず、気忙しさを感じずに静かな雰囲気で観覧できるのは心地よい。

あまり期待していなかったのだが、見出すほどにバスク文化の歴史・風俗に関する展示内容に引き込まれ、なまじの美術館などよりはるかに興味深く楽しめた。この博物館は「バスク」に少しでも興味があるなら必見の価値があると思う。

この後、ランチを済ませてから中心街からネルビオン川を10kmぐらい下った辺りにある世界遺産、「ビスカヤ橋」に行く予定だ。


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「バスク博物館」の入口。MUSEO VASCOの表示はスペイン語、右側のEUSKAL MUSEOAはバスク語。即ち、VASCOはバスク語ではEUSKAL になるということ。





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中に入ると手入れされた芝生のパティオがあり周囲を回廊が取り囲んでいる。古いカトリックの神学校を改装したとのことだがアーチの形状で統一された回廊沿いや窓枠は風格がある。



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1階回廊の壁面に古い樫の木の門扉があった。





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門扉の横にあった説明版だが、上半分はバスコ語で、下半はスペイン語で書いてある。詳細は分からないが外部の居住部につながる門扉(くぐり戸)らしく、蝶番などの鍛造品に見るべきものがあるという。





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パティオから見ると一部4階建てで歴史を感じさせる建物だ。




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やはり1階回廊の壁面、石板のようなものが展示されている。




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衣装展示の一例。そんなに古くは見えずせいぜい20世紀初頭あたりのものか。




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裁ちばさみ(?)の展示。昔から鉄製の鍛造技術が発達していたことが窺える。




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昔の鍛冶職人の作業風景。




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歴史的に外洋漁業(タラ漁、捕鯨など)、遠洋航海を通じ、造船技術が発達していたようだ。





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19世紀頃、当地の中産階級以上の家庭では陶磁器の平皿が普及していた。




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そばの説明書きによると、ビルバオの10km東方、ブストゥリア(Busturia)地方には白色のカオリン粘土が産出し19世紀中ごろから上質の陶磁器(ボーンチャイナ)が生産されていたようだ。



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こんなもの(ピストルや剣、農耕工具など)も作る技術があったらしい。説明によるとビルバオから南東に20kmほど離れたレバリオ(Lebario)にあった鍛冶工場で製作されていたとのこと。




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ビルバオ周辺のジオラマ。ネルビオン川が注ぐ河口は大西洋(ビスケー湾)に面した港湾。そこから川沿いに町がつながってビルバオの街は河口から10km上流にある。



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10.ビルバオ ① (ビルバオ市街) [15/9北スペイン]


 [バスクの町、ビルバオ]

サン・セバスチャン出発が14:10、ビルバオには15:30に着いた。中心街から少し外れているバスターミナルでバスを降りると眼前に緑の丘陵とそれをバックにした高層マンション(?)という組み合わせが目に入った。ちょっと意外な景色だった
が、この町の洗練されたものを感じたのも事実

ビルバオ(Bilbao)の名前は日本ではあまり馴染がないかも知れないが、スペイン北東部、バスク地方の中心都市である。人口は36万(都市圏では100万弱)だから日本の常識で考えればそんな大きな町ではない。

街は緑の谷間を蛇行しながら流れるネルビオン川(Rio Nervión)の流域に拡がっている。全体にコンパクトで概ね右岸の旧市街と左岸の新市街に分かれている。古さと新しさの中にも落ち着きを感じさせる雰囲気は、一見北部ヨーロッパの町を思わせるが、こんなスペインもあることを知るのは旅の楽しいところだ。

繁華街がある新市街は19世紀後半の都市改造計画による緩やかな格子状の街路を基本に主な都市施設が配置され、公園やグリーンベルトなどの緑も多く、石造りの街並みに高層ビルがちらほらする景観はとても人口36
万のそれではない。

その上、この町の規模から考えると過剰ではないかと思えるほど公共交通機関が充実している。元々発達していた鉄道網(私鉄・国鉄)のほかに、バスは当然としても、地下鉄、さらにトラムまで走っているのだから贅沢だ。果たして経営は成り立っているのかと余計な心配をしてしまう。

ビルバオは秋から冬にかけて曇天や雨の日が多いという。今回は夏の終わりで好天が続き、最も良い時期に巡り合えて美しい街並みを堪能することができた。


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到着したビルバオのバスターミナル。バックは緑の丘陵地に開発された住宅マンションだろうか?
ここには地下鉄やトラムが乗り入れていて、10分そこそこで中心街に行ける。



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グッゲンハイム美術館(別途後述)近くの公園からは樹木の向こうにイベルドローラ タワー(Torre Iberdrola、
2012年完成、40階建)が見える。このビルにはスペインの大手電力会社イベルドローラの本社ほかが入居している。この辺り一帯は工業地区だったところで昔はネルビオン川沿いに造船所もあったというのだが、90年代後半以降再開発が進みすっかり様変わりしてしまったという。



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この公園内をトラムが通っている。中央の木陰の向こうに車両が見える。



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中心街のアバンド(Abando)駅に入ってきたトラム。この後路線は右に曲がり坂を下ってネルビオン川沿いを進む。




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トラム車両は真ん中の連結部を挟んで2両編成で運行。





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ビルバオ市内のトラム、地下鉄、鉄道の路線図。





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地下鉄路線図。路線は2本あるが郊外への乗り入れが違うだけのようだ。宿はカスコビエホ(Casco Viejo)の近く、一つ西隣りが中心街のアバンド(Abando)、さらに西へ三つ行くとバスターミナルがあるサン マメス(San Mamés)
の駅だ。





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グランビア大通りの中間辺りにあるモユア広場(Plaza Moyúa)。花壇が美しい公園風の楕円形広場で周囲は銀行、ホテルなどの建物に囲まれていて札幌の大通公園を思わせる。この広場から放射状に8本の道路が出ている。(Taxiの車内から)



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バスターミナルのあるサン マメスにはスペインリーグの名門チーム、「アトレティコ ビルバオ」の本拠地サン マメス スタジアムがある。収容人数約4万人。画面左にネルビオン川、画面中央が中心街。(Wikipediaから)




  [ビルバオの宿]

話は戻ってバスターミナル。宿は地下鉄でも行けそうだったが、荷物もありタクシーで向かう。
ビルバオの宿はネルビオン川沿いで旧市街(カスコ ビエホ:Casco Viejo)に入ってすぐのアパートメントホテルをネット予約していた。

バルセロナやサン・セバスチャンで泊まったのと同じマンション一軒借り切りタイプで日本でもいま議論になっている"民泊"の一形態だが、スペインではごく当たり前の方式としてすでに定着している。

今回の旅ではビルバオを拠点にしてサンタンデール(Santander)やワイン産地、リオハのログローニョ(Logroño)などを日帰りで周ることを考えていたので4泊確保していた。(結果的に全ては思うようにいかなかったが……)

アパートの住所が分かりにくかったが、運転手にあらかじめ伝えてあった番地の前に車が停まるとそこに首尾よく管理担当だろう若い女性が待っていた。事前にメールで連絡を取っていたとおりだ。

女性の案内で通りに面した重い扉を開けて中に入るとホールがあり、突きあたりのエレベーターで4階(だったと思う)まで上がる。通されたマンションは2LDK(広さ:60㎡)で、型通りに設備やその使い方の説明があり鍵を渡されてチェックインは終了。この宿の場合は、予約直後に宿泊代が引き落とされていたせいかバルセロナの時のように契約書は作らなかった。



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正面の鉄格子の狭いドアが泊まった宿の入り口。中は奥に広い。向かって左隣りはバルで一度朝食に入った。





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突きあたりがフル装備のキッチン。





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手前のリビングからダイニング、奥のキッチンへと一連でつながっている。




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リビングの一角。右のドアから寝室2へ。






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シングルベッドが2つ入った寝室2。メインの寝室は別にある。





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リビングとソファ。




  [ビルバオの街へ]

一休みして夕暮れ直前の街に出た。宿のすぐ前にあるネルビオン川にかかる幅広の石橋を渡るともう新市街の中心だ。まず寄ったのはシルクラール広場(Plaza Circular)に面した観光案内所。ビルバオから日帰りでワインで名高いリオハ地方のワイナリーをどこか訪ねてみたいと思っていたのでその情報入手のためだ。

件の広場はむしろロータリーだったが観光案内所はすぐに見つかった。入口は狭いが中は意外に広く、正面がカウンターになっている。先客のグループに担当者がアテンドしていたが、幸い別の男性がすぐ応対してくれた。

こちらの希望を言うと地図や資料を拡げて親切に説明してくれたが細部の聞き取りはやっぱり難しい。でも平日には手ごろな日帰りバスツアーはないこと、行くならログローニョ(Logroño)ではなく手前のラグアルディア(Laguardia)という町がいいのではないかと教えてくれた。そしてバスの本数は少ないとも言っていた。いずれにしても2日後に行くことにして案内所を出た。

この広場はメトロのアバンド(Abando)駅のそば、地下はメトロ、地上には「グラン ビア」(Gran Vía)という大通りが走っている。この町のメインストリートだ。
正式な名前は「Gran Vía de Don Diego López de Haro」、12世紀に現れたこの町の創始者の名を取っている。

現在、グランビアを挟んだ周辺エリアはバスク地方の金融、商業センターとしての位置づけで、1.5km続く大通りの歩道沿いには銀行・オフィスのビルやホテルをはじめ、デパート、高級ブティックなどが軒を並べている。

アバンドの周辺をぶらついていたらグランビアに平行した一本裏通りにバルが並んでいる通りを見つけた。
夕方も7
時頃はまだ大した込み様ではなかったが、8時を回ると俄然人の流れで溢れてきた。道路は歩行者専用だからどのバルも道路にテーブルを出している。

大体外のテーブルから埋まり出し、ピーク時には中も空席を見つけるのが難しくなる。今日の昼はコンチャ海岸のレストランでがっちり食べていたので、一軒のバルで取ったワインとタパスの軽い夕食で十分だった。

スペインの「バル文化」は、ここビルバオでも当然ながら健在だった。
明日は郊外にある世界遺産のビスカヤ橋など、もう少し市内を歩く予定だ。





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i のマークが付いた「TURISMO」の表示が観光案内所の入り口、21時まで開いている。






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案内所の前の広場からグランビア大通りが始まる。この辺りは緩い上り坂で並木通りが美しい。



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案内所の前のシルクラール広場の辺り。右に延びる道路はグランビア。奥のビルは国内第二の大手銀行、BBVA(ビルバオ・ビスカヤ・アルヘンタリア銀行)タワー。




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グランビア大通りの夕方7時頃、広い歩道は市民、観光客が溢れている。





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スペインの有名デパート、エル コルテ イングレス(El Corte Inglés)の店内。グランビアの通りを挟んで2店出ている。




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グランビア北側の市場そば、西日があたるエンサンチェ広場(Plaza Ensanche)。




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グランビア通りと平行した一本裏の通り(Ledesma M.通り)はバル街。車を通していないので道路に日除けも出してテーブルが並べられている。暗くなる頃にはバルをハシゴする人たちで溢れ返るはずだ。


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「El Puertino」というバルの壁にOSTRAS(生牡蠣)の張り出しがある。この日は入らず、後日試してみたのだが…



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この日入ったバルの内部。カウンターと後ろにはテーブル席もある。地元のおじさんたちが一杯ひっかけに寄った感じ。




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何かの肉のバーガーサンド、オープンサンドにワインを頼んでいるようだが詳細失念。




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奥では老夫婦がのんびり食事をしていた。


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9.サン・セバスチャン [15/9北スペイン]


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サン・セバスチャンのシンボル、コンチャ海岸(Playa de la Concha:conchaは貝殻の意)。
ヨーロッパでもっとも人気のある海岸の一つという。その名前はこの湾が上空から見るとホタテ貝のような弧を描いていることに由来している。残念ながら午前のモンテ・イゲルド(Monte・Igeldo)山からの眺望は逆光になってしまう!


  [サン・セバスチャンのアパートメントホテル]

パンプローナからは北に1時間ちょっとのバスでサン・セバスチャンに着く。走りだしてすぐはまだ緑の少ない中(スペインらしい?)を進むが、次第に樹木が増えちょっとした山地(東西に延びるカンタブリア山脈の東端?)を超えると日本とよく似た風景に変わってくる。

車窓からの眺めは緑が溢れ、道路に沿った樹林越しにキラキラ光る清流も見える。こんなしっとりとした景色がスペインにもあるのかとちょっと驚く。スペイン中央台地の乾燥した赤茶けた荒野やアンダルシアのオリーブ畑の丘陵とは大違いだ。

景色が変わるのは気候が変わったからだろう。横切った山脈の北側は大西洋(ビスケー湾)に面していてやや雨の多い温暖湿潤型の気候になったことが関係している。

予定どおり16時半すぎにはサン・セバスチャンの町に入った。ほどなく到着したバスターミナルは、ちょっとした広場に10台ぐらいの
バスが離発着できる乗り場と簡易な屋根がかかった待合所があるだけだ。町によってバスターミナルがこうも違いがあるのも面白い。
予約していた宿は町の中心部に近いところにあり、南外れのターミナルからはタクシーで行く以外ない。

この宿を取るのには結構難儀した。こちらに来る3ヶ月以上も前にネットで探っていたのだが、元々人気観光地なうえに時期がまだ夏のバカンス終盤に当たるらしく手頃な物件は残っていなかった。

結局多少高めだったが、美食で名高いサン・セバスチャンのバル街に歩いて行ける立地条件を優先し何とかアパートメントホテルを1泊確保した。


タクシーは町を東西に分断するウルメア川(Rio Urumea)に沿って海方向に進みサンタ・カタリーナ橋(Puente de Santa Catalina)を渡って件のアパートメントホテルに着いた。幸いここには管理人が常駐していて鍵の受取りは問題なし、あっさり部屋に落ち着くことができた。

結構年季の入った建物の4階でエレベーターを出て扉を開けるとそこはゆったりした2LDK(65㎡) のマンションだった。やや冷たい感じがしないでもないが、内部や調度品は黒と白のモノトーンでまとめられていて品よく落ち着いた印象だ。勿論キッチンもすっきり完備していたが1泊ではほとんど利用せずで勿体ない。



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パンプローナを出た直後はまだこんな景色が続く。



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しばらく行くと山間に入っていく。カンタブリア山脈東端の急峻な石灰岩の岩山が現れ、それを越えると景色がガラリと変わる。



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日本で見るような景色。道路に沿って緑の中を清流が流れている。そろそろサン・セバスチャンも近い。





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サン・セバスチャンのバスターイナルは野外だった。何とものどか。



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一泊したアパートホテルの入り口。左側に管理人室があってあっさり鍵をゲット!





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マンション内の一つのベッドルーム。落ち着いた部屋の色調と照明が大人の雰囲気。




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ダイニング・キッチンのエリア。調理用備品は完備。


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こちらはリビングエリア。




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泊まった部屋は日本流で言えば4階。出窓から中庭をのぞく。



 [サン・セバスチャンのバル街]

部屋で一休みしてから夕暮れが迫ってきた街に出かけた。
宿を出てすぐのサンタ・カタリーナ橋を渡っている20時半頃が日没の時刻で、ウルメア川の川べりは茜色の夕焼けの残照が美しい。

あらかじめ狙っていた2,3軒のバルを地図で確認しておいたのだが、暗くなってくるとそれらを簡単に見つけられるほど小さな町ではない。この辺にあるはずと思っても見つからなかったり、見つけてもイメージがちょっと違ったりで入る店が定まらずしばらくウロウロした。土地勘のない悲しさ、初めての街だからしょうがないか……

結局探し回るのにも疲れてきて数多ある中で適当な1軒に入った。ごくありふれたバルだったが、すでに地元客らしい連中で賑わっている。ピンチョス(Pinchos:元々魚介類などを楊枝に刺したタパス料理の意)と呼ばれるタパスのメニューがおでん屋の品書きよろしく壁に書かれているが、知らない食材関係の単語が多くイマイチ理解できない。

それでも白ワインと名物のタコのガリシア風(Pulpo a la Gallega)のほか何品かマリスコス(魚介類)を取ってシェアした。結構ボリュームもありすぐにお腹が一杯になった記憶だけが残っている。

ピンチョスといってもバリエーションがあり、ほんの入り口を垣間見ただけで云々言えるはずもないが、”ピンチョス発祥の町”サン・セバスチャンのバルに一歩を印したのは事実である。


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時刻は20時半すぎ、夕闇が迫る直前のサンタ・カタリーナ橋から見るウルメア川(河口方向)が美しい




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暮れなずむウルメア川沿いの街並み。引き潮の時間帯らしかったが水面に映る茜色の建物も印象的。



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橋を渡って右折、振り返って今渡ってきたサンタ・カタリーナ橋を見る。



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入ったバルの内部。長いカウンターの内では二人の女性が仕切っていて、壁にはピンチョスのメニューが見える、






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頼んだピンチョスの一皿。



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宿に戻る途中のウルメア川沿いで、サン・セバスチャン一番の五つ星ホテル、マリア・クリスティーナホテルの前を通った。1912年開業の伝統と格式を感じさせる。



 [モンテ・イゲルド山]

一夜明けてこの日も快晴、夕方に次の町ビルバオに移動するのだがそれまでの数時間、この町のシンボル、コンチャ海岸を中心に歩くことにした。まずは高い所から見下ろそうと、貝が開く根元の両端にあるモンテ・イゲルド山かモンテ・ウルグル山のどちらかに登ってみることにした。

その前にまずは朝食だ。宿近くの大通りにあったバルでクロワッサンとカフェ・コン・レーチェで朝食、一度部屋に戻って荷物をまとめ今日も荷物をデポし宿を出た。

つかまえたタクシーの運転手に尋ねてみるとモンテ・イゲルド(Monte・Igeldo)山の方を薦められた。麓からケーブルカ-(フニクラール)が出ていて簡単に頂上まで行けるし、展望台からの眺望が抜群という。

タクシーがケーブルカー乗場の前に着いたときはまだ建物自体の扉が閉まっていた…が、ほどなく従業員のおじさんたちも集まってきて切符売場の窓口も開き、年代物の赤いケーブルカーは発車オーライになった。毎日始発は10時すぎのようだ。最初の客は我々と頂上で働くおじさんだけ、あっという間に頂上の終点に到着した。

頂上には石造りの古城風の展望台があり小さな店が何店かあるだけだが、コンチャ湾の入り口に浮かぶサンタ・クララ島、対岸のモンテ・ウルグル山、湾の奥に光るコンチャ海岸とその背後に拡がるサン・セバスチャンの町を一望でき、運転手が言っていた言葉に納得した。

天気はこれ以上ない条件だが、眺めるコンチャ海岸や市街の方向は東向きになるのか、まだ昇りきらない陽のせいで逆光になる。折角の絶景が眩しくて100%でないのは残念、この山に来るのは午後がいいのかも知れない。

それでも一通り眺望を楽しみケーブルカーで下りる頃には観光客も増えていた。終点からさらに坂を下るとコンチャ海岸の西端の海岸道路につながっていた。



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今朝もいつものクロワッサンとカフェ・コン・レーチェの朝食。



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この店の朝食メニュー。注文したクロワッサンとカフェ・コン・レーチェだけなら2.5€だから300円もしない。これに卵、ジャガイモ、ベーコンの皿を付けると7€になる。




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カウンターではこれから仕事の地元の人達も朝メシ中。




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モンテ・イゲルド山の登山電車(ケーブルカー)。





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登山電車は緑の木立ちの中を登っていく。




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ケーブルカーを降りて展望台に上り真っ先に観る景色はコンチャ湾。その背後はサン・セバスチャンの町だが逆光で見づらい。



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正面奥の小高い丘はモンテ・ウルグル山、中央に外海を遮る形でサンタ・クララ島が見える。




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コンチャ海岸から右に目をやると緑の中にサン・セバスチャン(San Sebastián)の町が拡がっている。人口は20万弱、バスク語ではドノスティア(Donostia)と呼ばれている。バックの山々がカンタブリア山脈になるのだろう。



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頂上にある古城風石造りの建物だが単なる展望台?




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帰りのケーブルカーでは乗客も増えてきた。




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ケーブルカーを降りて坂を下ってくると「Funicular」(フニクラール:ケーブルカーの意)の案内板があった。



 
[海岸通り]

スペインには風光明媚なビーチリゾートが多いが、そこには必ずと言っていいほど海岸通りがあり、遊歩道が整備されている。
ヨーロッパ人は遊歩道をそぞろ歩きするのがお気に入りらしく、夕方になるとバカンスで長期滞在している家族連れから老夫婦まで、老若男女がのんびり散策する光景をコスタ・デル・ソルの海岸町でよく見かけた。

コンチャ海岸はそんなビーチリゾートの先例の一つだろう。というのは19世紀後半には当時のスペイン王侯貴族や富裕層がサン・セバスチャンで夏を過ごすようになり、この海岸はヨーロッパでもっとも人気のある都市型ビーチの一つになった歴史があるからだ。

遠浅の青い海はサンタ・クララ島が外海を遮っていていつも波静かだし、70mあるという広い砂浜ではビーチバレーやトライアスロンの大きな大会も開かれるという。

砂浜に沿って走る海岸通りの海側に幅広の遊歩道(Paseo de la Concha)があり、美しいコンチャ湾を眺めながらのブラブラ歩きは最高だ。



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コンチャ海岸の西端に出てきた辺り。多分早朝にブルが走って砂浜を清掃した跡(?)が残っている。






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遊歩道に沿ってデッキ状の通路がった。砂浜の幅が広くなっていてビーチバレーの大会が開かれるのはこの辺りか。





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午前11時を回ったばかりの平日だが、徐々に海水浴客が増えてきた。




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歩いてきた遊歩道を振り返る。まだ昼前だがそこそこの人出だ。画像中央の丘がさっきまで居たモンテ・イゲルド山、頂上の展望台も見える。



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絵はがきのような一枚、左の円丘はモンテ・ウルグル山。





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遊歩道の一角に、砂浜に突き出た展望台があった。正面はモンテ・ウルグル山。




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モンテ・イゲルド山が遠くになった。右側はサンタ・クララ島。



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海岸通りを進むに従いモンテ・ウルグル山がだんだん大きく見えてきた。




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右側の海岸道路(車道)と左側の砂浜に挟まれて幅広の散策路が延々と続く。



 [サン・セバスチャンの街並み]

ケーブルカーを降りて1時間は歩いただろうか、コンチャ海岸の東の端に近づいた辺りで遊歩道沿いに「La Perla」(Perlaは真珠の意)という洒落たレストランを見つけた。

正面入り口は遊歩道に面しているが、奥(海側)にはテラス席があってそのまま砂浜に下りられるようになっている。まだ12時前だから昼飯には早いのだが、ビールで時間をつぶしつつ昼食の準備が整い次第頼むことにした。

この後14:10発のバスでビルバオに移動する予定なのでそんなに余裕はない。店に入って30分ほどしたところで幸いにも注文をとってくれた。
ホワイトソースのパスタと海鮮サラダにしたと思うが、店の雰囲気と合う上品な味でお腹にもやさしかった。

店を出て少し東に歩きこの町の中心街路、リベルター通り(Av. de la Libertad)に入った。装飾が施された由緒ありそうな建物が高さを揃えて立ち並び、重厚で洗練された印象を与える通りだ。この道を道なりに行けば宿に近いサンタ・カタリーナ橋につながっているはずだ。

通りの両側はいわば旧市街で左側一帯には憲法広場、県会議事堂、市庁舎、右側にはカテドラルなどがあるのだが、時間が許さず割愛した。

20万に満たない人口の町にしては、街の佇まいが垢抜け過ぎ(?)ている。バスク地方は裕福で生活レベルが
高いと聞いていたがパンプローナといい(この後行くビルバオも)確かにその通りだ。

この町では50年以上も続いている夏場の国際映画祭や音楽週間が有名だが、観光と若干の商業だけでこれだけの都市を維持できる秘密は何なのか?

答えは全ヨーロッパに知れ渡る「美食のまち」に育ててきた地域の独自性にあるらしい。伝統ある観光地としての名声を土台に、”美食”という独自の味を加えた厚みのある観光町おこしが見事に成功しているケースのようだ。



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レストラン「La Perla」の入り口、こちらの人は店先のメニューを見て食べたい料理があるか、値段はどうか吟味した上で入るかを決めるのが普通のようだ。






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まずはビールをもらう。出ているのはパン?





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ホワイトソースパスタ、カルボナーラだったか。味は普通に美味しい。




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海鮮サラダはシェアして……





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遊歩道から見た「La Perla」、海辺沿いのお洒落な海鮮レストランといったところ。





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左のコンチャ海岸と別れて右にカーブしていくとリベルター通りに続く。曲がり角は観光トロッコ車の乗り場らしい。





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リベルター通り(Avenida de La Libertad)の交差点で。





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緑濃いリベルター通り、左に曲がると市庁舎などがある。




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建物の高さがそろい、頂部には凝った搭屋が載っている。建設時の町の繁栄ぶりを感じさせるリベルター通り。



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寄れなかったこの町のカテドラル(Catedral del Buen Pastor)。(Wikipediaから)



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サンタ・カタリーナ橋まで戻ってきた。端のたもとから上流側を見る。水がきれい。




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橋を渡って宿の近くまで来た。この辺りの建物も頂部をみるととても凝った造りだ。




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このALSAのバスでビルバオに向かう。出発は5分後、定時のようだ。



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8.パンプローナ [15/9北スペイン]


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パンプローナと言えば「牛追い祭り」(サン・フェルミン祭)で有名だ。白いワイシャツとパンタロンに赤いネッカチーフを付けた大勢の男たちが雄牛を追いかける(から逃げる?)光景を日本のTVでもよく見かける。スペイン三大祭りの一つで毎年7月6日の前夜祭から9日間も続けられる。(Wikipediaの画像から)



 [パンプローナに到着]

パンプローナには20時前に着いた。この時期、日が暮れるのはもう少し先のようでまだ十分明るい。
ここのバスターミナルはサラゴサのそれに負けず劣らず立派でびっくりだ! 乗降車場がすべて地下に納まっていて、その屋根にあたる地表部は緑地(公園)という斬新さ。どういう経緯でこうなっているのか分からないが、景観、環境への配慮が行き届いている。でも初めて来たらどこがバスターミナルか見つけるのが大変かもしれない(?)

今晩の宿は一泊なので普通の三ツ星ホテルを取っていた。地図でみると歩いて行ける距離だが、早く晩飯に出掛けたかったので地下のタクシー乗り場からホテルに向かった。

あっという間に着いたホテルは日本のビジネスホテルを思い出させる広さだったが、部屋は機能的で印象は悪くない。さすが観光立国スペイン、三ツ星でもホテル自体の質は確かで値段もリーズナブルなのは嬉しい。



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サラゴサを出るとバスは延々と続く平原状の景色の中をひた走る。




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車内はガラガラだった。





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あまり農業に土地利用されているようには見えないが、風力発電の風車はよく見かける。





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パンプローナのバスターミナルは地下にあった。とても広い。恐らく掘り込み式で建設し、その後蓋をするように屋根(地表では緑地)をかけたのか?




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広大なバスターミナルの地表部は緑地になっていてまさかその下に発着場があるとは思えない。エスカレーターで地下に下りるようになっている。周囲への環境配慮は万全。(Wikipediaの画像から)




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ホテル付近の街並み。右側の道路がサン・イグナシオ通りになる。




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泊まったホテルの部屋、広くはないが1泊の部屋としては何の不足もなく快適。




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部屋の水回り部分。バスタブはないがシャワー水は水量十分で快適。



 [サン・ニコラス通り]

すでに夕食の時間帯、フロントでレセプションの男性にお薦めの店を訊いてみた。
「それならサン・ニコラス通りがいいですよ、良い店が選り取り見取りです。」と教えてくれた。

ホテルはサン・イグナシオ通り沿い、街の中心に向かうと10分足らずでカスティージョ広場(Plaza de Castillo)に出る。そこを左折するとサン・ニコラス通り(Calle San Nicolás)があった。何の変哲もない広めの横丁といった感じで両側に居酒屋が並んでいる。さすがに日も暮れてすっかり夜の街に変わっていたが店をハシゴする老若男女で溢れている。

これがスペインのバル文化か、と思いつつ店の中を覗くがどこも混んでいて大賑わいだ。どの店にするか、特段の注文もないので全く適当に一軒の店に入ってみた。幸い細長いその奥に一つ空いたテーブル席があった。

気取った高級レストランではないから何を取っても値段はそこそこだろうと踏んで、まず赤ワインを頼む。次いでメニューを見てイメージが浮かぶ料理を注文してみたがどの皿もいい味で日本人の舌にピッタリだ。
本場のワインと旨い料理でパンプローナの夕食を心ゆくまで堪能できた。



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適当に入ったバルの内部。





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何を注文したか今となっては定かでないが、野菜、パスタ、肉の料理のはず。





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どの皿も味はバッちりでワインが進む。もし機会があれば是非また訪ねたいものだ。




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夜も11時近くなってバルを出ると向いの店はまだ賑わっていた。




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この店もまだ・・・、彼らにとってはまだ宵の口?  これがスペインのバル文化か。



  [ヘミングウェイゆかりの店]

一夜明けて朝食は街中で取ることにし、昨夜も垣間見たカスティージョ広場に向った。というのは広場に面してヘミングウェイがよく通ったというカフェがあるのを案内書で見ていたから。

ところで、パンプローナ(Pamplona)はナバラ自治州の州都で人口(パンプローナ都市圏)は
30万ほど、フランス国境のピレネー山脈に近く、蛇行するアルガ川沿いの小高い丘陵にのんびりと広がっている。

そもそもこの地には土着バスク人が先住していたが、
紀元前のローマ人の侵入以来数々の部族によって断続的な支配が繰り返されてきた。中世以降は街を城塞で守る城塞都市として知られ10~16世紀初頭まではナバラ王国の首都として栄えた。

近代に入ってからは1930年代のスペイン内戦以降、特に60年代あたりから急激に工業(自動車産業)、サービス産業が発展、国内外からの人口流入もあって町は急拡大してきた。

現在パンプローナ州はバスク地方と同様、国内では経済的に裕福な地域と言われ、高い生活水準を誇っている。都市機能としての空港、鉄道、バス、高速道路などの充実ぶりも素晴らしい。

さて、今日は月曜、朝も8時を回っているのに街並みには人影もまばら、だだっ広いカスティージョ広場に来ても同じでここの人たちの活動開始は何時なのだろうか? 
お目当ての店は広場の突き当りにあった。

「カフェ・イルーニャ」(Iruñaはバスク語でパンプローナの意)という店で、米国の小説家A.ヘミングウェイが「日はまた昇る」の中に登場させている。

まだ閉まっているのかと思いながら入ってみると、一時代前を思わせる天井が高い造りの老舗だ。テーブルが整然と並んだ店内にはまだ客はいなかった。

それでもカウンターの中で片づけをしていた女性にコーヒーにクロワッサンを注文したら用意してくれた。それにしてもこのホールような大きな店に客がいないのはちょっと落ち着かない。昼食、夕食が中心なのかも知れない。

ヘミングウェイはスペインで闘牛に心酔し、ここパンプローナや近郊の村に滞在、牛追い祭りにも熱狂したとされている。そんな体験を題材に闘牛や牛追い祭りの作品をいくつか書いている。

ホテルに戻る途中、少し遠回りして闘牛場に行ってみた。牛追い祭りの時にナバラ美術館そばの囲い場から放たれた雄牛たちが800m疾走して最後に入りこむのがこの闘牛場だ。

残念ながら中には入れず高く聳える観客席のスタンドの外観を見ただけだが、入場口のそばにヘミングウェイの胸像があった。


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真ん中に噴水がある7叉路ロータリー、プリンシペ・デ・ビアーナ広場(Plaza Príncipe de Viana)。ホテルのすぐ近く。(Wikipediaの映像から)




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朝のホテル周辺。8時を回っているのにこの街はまだ目覚めていないのか、人通りが殆どない。




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ホテルを出て数分歩くとナバラ自治州の政庁(Gobierno de Navarra)の前を通った。



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8時半を回っているのにカスティージョ広場も閑散としている。




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ようやく陽が少し高くなって東向きの建物に日が射してきた。




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結局のところ、日没が遅い分、日の出も遅いため朝の開始も遅めということか。




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カスティージョ広場に面して南向きアーケードにヘミングウェイゆかりの「カフェ・イルニャ」(Cafe Iruña)があった。Iruñaはバスク語でパンプローナの意だそう。





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「カフェ・イルニャ」の店内。高い天井にシャンデリア様の照明が付けられ整然とテーブルが並んでいる様は歴史を感じさせる。






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「カフェ・イルニャ」の隣には「Café・Bar HEMINGWAY」という看板もあったが別の店(?)。




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ナバラ州政庁の壁に付けられたカスティージョ広場の住所プレート。




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カスティージョ広場から闘牛場へ歩いていくと途中で並木が美しい道路を横切った。




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闘牛場の外側を歩いていると立派なスタンドを背景にヘミングウェイの胸像があった。

 [旧市街と城塞]

一度ホテルに戻ってチェクアウト後荷物を預け、また街に出た。今日は午後早いバスでサン・セバスチャンに行くことにしている。それまでの時間は旧市街の向こう側(中心街の北東側)
に拡がる城砦跡を散策する予定だ。

また
またカスティージョ広場を突っ切っていくとその向こうは旧市街だ。突然道が狭くなり黄土色の石造りの建物が迫ってくる。一瞬にして千年の時空を飛び越え中世の街にタイムスリップさせてくれるのはこの町の魅力の一つだろう。他の町や国でも見られるとは思うが、この町の新旧のコントラストは格別だ。

狭い路は迷路のようでどこに出るのか分からなかったが、高い方向へ歩いていくと突然前が開けて見事な石積みの城砦が現れた。青空に映える城砦(塁壁)は中世の長い時を通じて建造、破壊、修復を繰り返してきた”兵どもが夢の後”なのだろう。

いつの間にか行き着いた「カバージョ・ブランコ展望台」からの遠望は素晴らしかったし、そこから下っていく散策路は塁壁の下を通ってアルガ川の河畔まで行けるらしかったが時間が気になりだした。



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旧市街に入ると途端にこんな街並みになる。画面左端の壁に「ENCIERRO」と書かれた赤いプレートが付いている。「エンシエロ」は”牛追い”の意で、プレートが貼られている
道は牛追い祭りの本番で6頭の雄牛が疾走するルートになっているようだ。





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旧市街の真っ只中、古い石造りの建物の壁には「Calle de San Agustin」(サン・アグスティン通り)の表示。




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旧市街を抜けると景色が開け、石造りの城砦が現れた。




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すっかり青空が拡がってピレネー山脈方向に山並みがくっきり。





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城砦の上部を歩いているとRonda Barbazana(バルバサーナの塁壁)の案内板があった。





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城砦は大規模で遊歩道でつながっているようだ。カバージョ・ブランコ展望台に向かってみる。




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如何にも中世の雰囲気を漂わせる坂道を通って展望台へ。




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カバージョ・ブランコ展望台(Mirador del Caballo Blanco)からの景色。手前下にアルガ川が流れている。




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城砦(塁壁)上部から城址を見下ろす。




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この角度から見ると塁壁の大きさが分かる。散策路が塁壁の下に延びアルガ川に続いている。




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城砦の下に降り散策路をいくとアルガ川の支流の小川にかかるサン・ペドロ橋があるはずだったが、生憎修復中の看板が出ていて見れず。風情のある橋らしかったが。




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さらに進むと思いがけずこんな美しい風景に出会った。




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アルガ川まで出てみようと歩いてきたがなかなか到達せず、振り向くと木立ちの向こうにカテドラルの尖塔が小さく見えていて相当来てしまったことが分かる。午後のバスが気になってきて街に引き返すことにした。



 [街に戻る]

午後のバスは確か15時半発、その前に昼飯も食べたいので逆算しながら街に戻る。
城砦公園の散策路から道なりで旧市街に入るとカルメン通り(Calle de Carmen)につながっていた。

最近、スペイン語のクラスでは「サンチャゴ巡礼」
を題材にした教材が使われているのだが、その中でパンプローナの町も順路になっていること、順路の道には巡礼者が迷わないようホタテ貝マークの道標があることなどを知った。

「サンチャゴ巡礼」とはスペイン北西部のキリスト教の聖地、サンチャゴ・デ・コンポステーラを訪れる巡礼の旅のこと。基本のルートはピレネー山脈のフランス側の町を始点にした約800kmの路だ。

現地を歩いているときは気が付かなかったが、カルメン通りの写真を見ているとそのホタテ貝マークがあるではないか!この路が「サンチャゴ巡礼」のルートだったことを最近知り、ひとりごちた。

それはさておき、またレストラン探しをしながら、カテドラル、市庁舎前を経てカルメン通り、ポソ・ブランコ通り(Calle de Pozo Blanco)ときて、結局昨晩の居酒屋があったサン・ニコラス通りに辿りついた。

昼飯にはまだ少し早い13時前で、開店準備中の店前で待つ人たちも多い。
何軒か覗いてみたが、どこの店も大差ないメヌー・デル・ディア(日替わり定食)を用意している。結局
応対の良かった一軒に決定。セグンド(メイン)で頼んだ岩塩だけでグリルした鶏のモモ肉は絶品だった。

バルセロナを出て北スペインに入って食べる料理の味はまだ裏切られていない。この先がますます楽しみだ。

ホテルに寄って荷物を引取り、余裕で歩いてバスターミナルに向かった。今晩はサン・セバスチャンだ。




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カルメン通り沿いの建物の壁(右上部)に青地にホタテ貝のプレートを見つける。拡大した写真を下に。




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拡大するとよく分かる。下の ⇐ は巡礼路の方向を示している





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カルメン通りでさらにサンチャゴ巡礼者のための宿屋(Albergue)を見かけた。画面中央部の赤い壁面にAのマークとホタテ貝印の青いプレートが見える。巡礼者のための宿泊施設の意味だ。食事つきで14€(1700円程度)と表示されている。








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カルメン通り(Calle de Carmen)のあたりで右手の奥にカテドラル(正式にはCatedral de Santa María la Real de Pamplona)の鐘楼が見えた。





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この辺りは旧市街ながら少し道幅が広い。




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カルメン通りを下ってきたらパンプローナの市庁舎前広場に出た。毎年7月6日の正午、市役所2階のバルコニーから牛追い祭り開始の宣言が発せられる。




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牛追い祭り開始日正午の市庁舎前はこんな具合になるらしい。(Wikipediaの画像から)




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カルメン通りからポソ・ブランコ通りを来ると昨夜のサン・ニコラス通りを見つけた。この小路がそれ。




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サン・ニコラス通りで入った店先。Menú del día(日替わり定食)の看板が出ている。プレート(前菜とメイン)を二つ選択でき、飲み物とデザートが付いて11.5€は正直リーズナブル。スペインは全国どこへ行っても昼飯はこの方式があるので安く上げたい旅行者にはとても有難い。





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プリメロ(前菜)はMenestra de verduras(ミックス野菜)だったか?




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セグンド(メイン)は、岩塩だけで焼いた鶏のもも肉(Pollo Asado con sal)。フォークを入れただけで身がホロホロとくずれ、シンプルな味が秀逸だった、今でも忘れられない一品だ。






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デザートで頼んだはずだが何だったか失念。




IMG_0078.JPG待っているのか、
店先で談笑しながら席が空くのを待っているのだろうか?





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14時半に近づいたサン・ニコラス通りを後にバスターミナルに向かう。


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7.サラゴサ [15/9北スペイン]


 [バルセロナ→サラゴサ]

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スペイン北東部の地図。左上は大西洋(ビスケー湾)、右下は地中海。右下にバルセロナ、中央にサラゴサ、その北側にパンプローナがある。バルセロナからサラゴサへはおおよそ300km、さらにパンプローナへは150km強の距離。パンプローナはもうピレネー山脈に近い。



朝8時発のバスに乗るのは結構キツい。5時半に目覚ましをかけ無事起きれたものの外はまだ真っ暗。3泊したマンションを引き払うにあたって、忘れ物がないか冷蔵庫の中まで確認し、ゴミも分別して袋にまとめ、昨夜のうちに大方作っておいた荷物の最終パッキングをする。最後に忘れてならないのは預かっていたマンションの鍵を指定された居間のテーブルに置いて出ることだ。

これらのこと、特にゴミと鍵の件は入居契約書にサインする時に管理会社(?)のお兄さんから念を押されていたことで、そうしないと保証金の300€が戻ってこない。我々が出払った後に器物破損等の問題がないことを確認すればカード払いで返金される手筈になっている。

それはさておき、幸い北バスターミナルは宿から1ブロックしか離れていない。まだ完全に明け切らない日曜日の早朝、人影の殆どない歩道を荷物を引いてターミナルへ向かう。そばのレストランが開いていてボカディージョ(フランスパンにチーズとハムを挟んだサンド)とカフェ・コン・レーチェ(カフェオレ)だけの簡単な朝食で腹ごしらえを済ませる。

バルセロナにはこの「北ターミナル」のほかに「サンツ・バスターミナル」があるが、サンツは周辺国への国際線バスが主で、国内線は「北ターミナル」から出る。このターミナル、スペースはそこそこだが全体的に設備は旧態(?)でバロセロナには似つかわしくない感じもする。

今朝はこの町を出ていよいよこの旅のハイライト、スペイン北部に向かう。
まず途中サラゴサに寄ってエブロ河畔の古都を散策し、夜はパンプローナに泊まる予定だ。

すでにサラゴサまでのバス切符は到着した日に自販機で購入済み。勿論鉄道、特に新幹線(AVE)で行けば1時間半ちょっとだが、急ぐ旅でもなし、旅情とコスト優先で移動はバスの旅を選択している。

バスの出発は8:00だが、何番線から出るのか?電光掲示の案内板によれば、サラゴサ行きはないが8:00発のマドリード行きが21番線から出るとある。結局このバスはサラゴサを通るので途中下車すればよいということだ。

8時直前になってALSAのバスが入線、発車は定時だ。指定の座席は中ほど、乗車率は半分ぐらいか。



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かなり硬いハーフのフランスパンに生ハムとチーズが挟んである。朝飯はこれで十分。



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ターミナルに停車中のALSAのバス。ALSAはスペインで最大級のバス会社、全国を網羅している。



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出発後E-90号線を快走、小1時間して分岐の案内が出た。直進すればジェイダ(Lleida)、サラゴサを経由してマドリードに行き着く。左に分かれるとタラゴナ(Tarragona)に出て地中海沿いを南下しバレンシア(Valencia)に至る。E-90はバロセロナーマドリードを結ぶ主要幹線道路でそのほぼ中間にサラゴサの町がある。



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11時を回りそろそろサラゴサの町が近づいてきた。日曜日の午前中で渋滞もなく快調そのもの。



 
  [サラゴサを歩く]

走り出して3時間半、サラゴサには11時半に到着した。とても大きくて近代的なバスターミナルだ。2004年のAVE(スペインの新幹線)開通時、その駅と併設されたからだろう。

ところで、サラゴサ(Zaragoza)は人口70万弱のスペイン第5の都市。町の歴史は古く紀元前のローマ時代まで遡り、その後いろいろな民族が出入りするが、1118年にアラゴン王国の首都になるまで約400年間はイスラムにも支配されている。

東のバルセロナ、西のマドリード、北のビルバオ、フランス南部のトゥールーズなどの近隣主要都市にそれぞれ300kmほどの距離にあり交通の要衝でもある。

夕方にはまたこのターミナルに戻ってきてパンプローナへ行かなきゃならないので荷物はデポしておきたいところ。少し手間取ったが何とかトランクをコインロッカーに収め、タクシーで街の中心部に向かう。
行先は案内書で目星を付けていたスペイン広場(Plaza de España)だが歩くにはちょっと遠い。

途中タクシーから見る街並みはスッキリとしていて清潔な印象の町だ。日曜日の昼過ぎということで人も車も少ないせいもあるのだろうか。12時は回っているがスペインの昼食時間にはまだ少し早い。でも朝が軽かったのでレストランを探しながら散策する。

ちょうどスペイン広場に面して店先にテーブルを出しているテラス式の店があった。テーブル席の先には日替わり定食(Menú del día)のメニューが書かれた看板を出している。値段も普通、のどかな雰囲気も気にいって入店。

快晴の日曜日の昼下がり、ランチを楽しむ地元の人たちを眺めながら食した料理は定食といってもなかなかのもの。この値段でこの味なら何も言うことはない。スペインは北に行くと料理が旨くなると言われているが早速ここサラゴサでそれを実感した。


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とにかく大きいサラゴサ駅。バスセンターとRENFE(スペイン国鉄)の駅が一緒になっている。




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駅の構内はRENFEのホームが大半のスペースを占めている。(Wikipedia:Estación de Zaragozaから)




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勿論、バスのホームもズラリと並んでいる。(Wikipedia:Puente de Piedraから)





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バスの待合室もスペースはたっぷり。




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スペイン広場のあたり。日曜日で車も少なくのんびりしたもの。




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整然とした大通り、スッキリしてます。




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スペイン広場にある噴水を背に憩う地元の人達。



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レストランで座った席から広場の一角を眺める。




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日替わり定食を説明する立て看板。週替わりのお薦めメニューが書かれている。
前菜の一皿目、メインの二皿目をリストから選択、飲み物はワインかビール、それにコーヒーが付いて11.5 €(約1,500円)は悪くない。




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上の3枚は注文した日替わり定食。上は前菜としてメニューにあったカルボナーラを選択、大当たりだった。飲み物は白ワイン。真ん中はメインで確か立看板にあった「干しダラのリオハ風」(Bacalao a la Riojana)を頼んだ、トマトソースのやさしい味付けで美味。下は食後のカフェ。総じて味はまろやかで日本人の舌にもピッタリだった。勿論パンが別途付いている。



 [ピラール聖母聖堂]

レストランを出て大よそ15分、歩行者天国のアルフォンソ通り(calle Alfonso)を行くとピラール広場に出た。正面にどっしり構えているのがピラール聖母聖堂(Basilica de Nuestra Señora de Pilar)だ。
この聖堂はサラゴサのシンボルであると同時に、サンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂と並んでスペインで最も重要な宗教建築の一つとされている。

バロックの至宝と言われるこの大聖堂の内部には聖母ピラール礼拝堂があり、スペインの守護聖母ピラール像が祀られていて全国の聖母信仰の中心地になっている。

ピラール広場は横長でとても広大、日曜日の昼下がりとあって地元の家族連れの姿が長閑で平和な雰囲気を作りだしている。門外漢ながらミサが行われていた大聖堂の内部も覗いてみたが、残念ながらその有難み(?)はピンとこない。

ところで、広場裏側のエブロ川に架かるピエドラ橋から見る大聖堂の景観は見逃せないという。夕方のバスを考えるとあまり時間はないが、広場を抜けて聖堂裏側のエブロ(Ebro)川沿いに出てみる。

この川、地中海に注ぐスペイン第二の河川だが、少し下流側にピエドラ橋(Puente de Piedra、まさしく石の橋の意)がある。ローマ時代から橋は架けられていて現在の石橋は15世紀に架け直されたものだ。

橋のちょうど中央部に歩道が少し出っ張ったテラス風の個所があり、ここから望むピラール聖母聖堂は確かに素晴らしい。多分ここは絶景撮影ポイントの一つになっているのは間違いない。快晴の下で絵はがきのような一枚が撮れた。

そろそろバスの時間が気になってきて街に戻ることに。スペイン広場近くまできてバスターミナル行きのバスを探してみるがいまいちはっきりしない。流しのタクシーも簡単に捉まらず、結局タクシー乗り場が見つかって何とかターミナルに戻った。

パンプローナ行きは17:30発、順調に行けば2時間少しだからまだ明るいうちに着くはずだ。



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スペイン広場のレストランからピラール聖母聖堂に向かうにはアルフォンソ通り(calle Alfonso)を行くのが正解のようだ。



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歩行者天国のアルフォンソ通りをブラブラ行く。



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アルフォンソ通りの途中に「SAKURA」という日本食レストランらしき店が。




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近づいてみると、ビュッヘスタイルのようで西・英・中・日・韓の5か国語で簡単に料理を説明しているが、やっぱり日本語は少し怪しい。




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アルフォンソ通りはそろそろ終点、正面にピラール聖母聖堂が迫ってきた。




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ピラール広場に出るとドーンとピラール聖母聖堂が出現、その存在感に圧倒される。




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広々としたピラール広場、遠くに「ラ セオ」(サン・サルバドール大聖堂)の尖塔が見える。



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ピラール広場でのんびり寛ぐ地元のファミリー。



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ピラール広場で左に聖母教会を見て進むと突き当りに「ラ セオ」(La Seo)がある。正式にはサン・サルバドール大聖堂だが、習慣的にアラゴンの言葉でカテドラルを意味するラ セオと呼ばれているらしい。見かけはアラブ風に見えるのはムデハル様式(イスラム文化とキリスト教文化が融合した様式)で建設されているからだろう。


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正面に「ラ セオ」のミナレット(モスクに付属する尖塔)のような高い塔が近づいてきた。



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ピラール聖母聖堂の裏側に出るとエブロ川の河畔に出る。ちょっと分かりずらいが、ライオン像が乗った石柱が左に延びるピエドラ橋の起点になっている。



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ピエドラ橋を渡り始めた所でピラール聖母聖堂を望む。右はエブロ川、いつもはどうなのか?水は濁っていた。



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ほぼ橋の中間地点から撮った一枚。恐らくこの位置、角度から撮るピラール聖母聖堂がベストショットのようだ。ライトアップされた夜景も素晴らしいらしい。



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エブロ川にかかるピエドラ橋。ローマ時代からこの場所にかかっているが現在のものは15世紀前半に建設されたもの。(Wikipedia:Puente de Piedraから)



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夕暮れのエブロ川とピラール聖母教会。(Wikipedia:Basilica de Pilarから)



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ライトアップされたエブロ川とピラール聖母教会そして手前にピエドラ橋。(Wikipedia:Basilica de Pilarから)


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6.バルセロナ ⑥(サグラダ・ファミリア (2) 、サン・パウ病院ほか) [15/9北スペイン]


 [サグラダ・ファミリア聖堂のエレベーター]

エレベーターは1台で収容人員は10人位だから一気にはさばけない。列について順番がくるのを待つのみ。11時の予約だったが時間にはあまり拘らないようだ、ここはスペインだし。
乗れば一気に高さ60mあたりの終点まで連れていってくれる。

エレベーターを出たら展望台があるだろうと思っていたがそんなものはなく、前を行く人の背中を追って狭い一本道の通路を進むことになる。余裕のないまましばらく行くと必然的に下りのらせん階段に導かれてしまった。

後で読んだ情報によれば他のルートの選択もあったようだ。思い出してみると確かに狭い通路を通っている時、枝分かれする個所があったのは事実、そっちに行けば外に出れて別の景色を見ることもできたようだが今となっては後の祭り。まあ下りる途中で出窓というかテラスのようなところがいくつもあってそこからの展望が素晴らしかったのだから良しとしよう。

らせん階段は降り始め右回りの急こう配で大人一人がようやく通れる程度、なるほどエレベーターに乗る前に背中のザックや手荷物などはすべてロッカーに入れたほうがいいと言われたのは納得だ。それに実際下りてみて言えるのだが足腰に余裕がないと結構キツイし、高所・閉所恐怖症気味なら足がすくむ場面があるかも知れない。

らせん階段は約400段あり下りるだけでかなり消耗したが、建設時の苦労を思うと頭が下がる。下のフロアに戻ったら新たな感慨が湧いてきて改めて聖堂を見上げてしまった。退出は入場した「誕生の門」とは反対側にある「受難の門」から出た。

そろそろ昼食どき、午後はここから徒歩圏にある「サン・パウ病院」に行くので途中で食事処を探すことにした。


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エレベーターを降りて通路の出窓からまず見えた景色。聖堂部分の上部を飾っているフルーツのオブジェの彫刻群が見える。

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後ろを見上げると工事中の現場が。



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出窓から眺めるバロセロナの街(地中海方向)。弾丸のような独特の形で有名なバルセロナ水道局の高層ビル(トーレ・アグバール、38階建て)が見える。2005年完成、地元でのあだ名は「座薬」、よく言ったものだ。



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いよいよらせん階段の下りが始まる。



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らせん階段を降りている途中の出窓から見る市街北東方向。




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搭の上部にある果物(ぶどう?)のオブジェが間近に見える。その背後の建物は仮設の工事事務所・宿泊所か。




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ある出窓には奇妙な装飾が施されていた。




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見上げると大理石造りの重厚さに圧倒される。




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出窓から真下を見下ろすと足がすくむ。中央池の向こう側に人だかりが見えるが例の「撮影ポイント」だ。




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らせん階段の壁面(簡単に落書きできそうな大理石か石灰岩?)は落書きでびっしり。いつ誰が彫ったのか?建設時の作業員なら簡単だったかも!?




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らせん階段を下っている時に真下をのぞき込んで撮ったのだが面白い写真になった。手すりがあるとはいえ、この写真を見ているとまた目まいを起こしそう。前を降りている人の足元を見るだけで階段の狭さと急こう配が分かる。




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らせん階段が終わると突然視界が開け聖堂の平面が見えてくる。




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ステンドグラスから差し込む光が作りだす幻想的な空間を改めて見上げる。武骨とも見える外観からは想像し難い。



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「生誕の門」や「聖堂内部」の造形とはちょっと違う「受難の門」上部の彫刻群。キリスト磔刑の苦しみや悲しみを表現しているという。




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全体的にガウディの特徴的な曲線は見られずむしろ直線的な現代彫刻風だ。「受難の門」はガウディ没後に後継彫刻家が彫った部分だから当然かも知れない。



 [サグラダ・ファミリア聖堂→サン・パウ病院]

「サン・パウ病院」(Hospital de Sant Pau)は、サグラダ・ファミリア聖堂の北1kmちょっとのところにある。サグラダ・ファミリア聖堂から真北に延びるガウディ通り(Avinguda de Gaudí)の緩い坂道を上っていくと病院にぶつかるのだが、その手前で道沿いのレストランに入った。

昨日の昼飯と同じく中央分離帯にあるオープンレストランだ。ここで頼んだのはパスタの海鮮パエージ(Fideuá)、今まで機会があるようでいて食べた記憶のない料理だったが、想像していたとおりの味でまずまずだった。

レストランを出てガウディ通りから病院内に入ると、左右に袖を拡げたような病院棟が来院者を迎えてくれる。建設の指揮を執ったのは建築家 リュイス・ドメネク・イ・モンタネル。因みに、彼は若くして母校バロセロナ建築学校の教授になり、その教え子にはガウディがいた。さらに政治家としても活躍し地元の名士かつリーダーでもあった。

この病院は市内にあった6つの病院を統合する形で1902に着手、30年に完成しているが、14.5haの広大な敷地に48の建築物が立ち並ぶ大規模なものでおよそ病院らしくない豪華で芸術性の高い建物も多い。
各病棟間を地下廊下でつないで患者の移動を容易にしたり、地上部には患者の心を癒すゆったりした緑の空間を設けるなど、患者優先で機能的かつ斬新なアイディアが100年近く前に採用されていて驚かされる。

19世紀後半から20世紀前半にかけてバルセロナでは経済が大いに発展、財政的支援を受けて市内のあちこちで「モデルニスモ」建築が競い合うという華やかりし頃でもあった。ちょうどガウディがサグラダ・ファミリア聖堂の建設に着手した10年後、そのすぐそばで当時はガウディよりはるかに有名人だったモンタネルが巨大病院を建設していたことになる。

なお、「サン・パウ病院」は1997年に世界遺産登録。2009年老朽化で閉院するまで現役病院として利用されていたが、その後修復もなされ現在は内部を見学できるようになった。



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ガウディ通りを上っていくと正面に「サン・パウ病院」が見えてくる。右側の中央分離帯にはオープンレストランが並んでいる。




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前菜はイベリコハムとジャガイモ(?)の盛り合わせだったか、写真を見ても思い出さない。




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中央にあるのがパスタの海鮮パエージャ(Fideuá)、海鮮のダシが効いていて旨かった。




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いよいよ病院の敷地に入る。




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見学案内の看板、カタルーニャ語、スペイン語、英語の3か国語で表記されている。年中無休だが夏季と冬季、曜日によって若干開場時間が違うようだ。



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サグラダ・ファミリアとは対照的に観光客は少なくひっそりした感じ。




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病院全体の模型があった。14.5haの敷地内に48の建物があったという。


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モデルニスモ建築の傑作とも言われる。ドームの形状が多用されていたり、タイルのモザイクがあったり、イスラム建築の影響を受けているように見える。


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繊細でかつ豪華なイメージが漂う。これが病院?歴史ある有名大学の本館の雰囲気だ。

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各建物間はゆったりとした緑が広がり、小道でつながっている。




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当時の大部屋の病室内部を写した写真か、異様に天井が高い。




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どこかの宮殿のようなゴージャスな建築物でとても病院には見えない。




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見学を終え、タクシーを拾うべく病院前街路に出てきた。病院前は静かな佇まい。





 [サン・パウ病院→グエル公園]

サン・パウ病院を出たが午後はまだ長い。もう一か所、比較的近距離の「グエル公園」(Park Güell)にタクシーで向かうことにした。乗ったタクシーは山手に向い15分ほどでグエル公園の坂の下に着いた。

土曜の午後のせいかやっぱり人出はすごい。公園北東側の入り口から入ると以前はなかった切符売り場があった。もう10年近く前のことだが、当時は何の制約もなく入れたはずだが・・・、後で調べてみたら2013年から有料(入園料は€5.5)になったらしい。
周辺住民から騒音、混雑の苦情が多く、来園客を少しでも減らすためにとられた措置とのこと。

この公園は言うまでもなくガウディの作品(1900~14年に建設)だ。
彼はグエル伯爵の支援を受け都市近郊のこの地で環境に調和した庭園型分譲住宅を計画したものの、当時の立地条件の悪さや想定外の開発規制などの問題をクリアできず、結局、広場など一部の共有施設と2軒の住宅を建設しただけで計画はとん挫、その後市が引取って今の姿になったという。

今回はあえて入場せず、公園の山側を取り巻く遊歩道を散策して南西側の道路に出た。ということで、テラス状広場、その縁に並ぶ破砕タイルでできたベンチを遠目で眺め、広場を支えているドーリア式の列柱群やトカゲの口から水が噴き出ている有名な階段手摺、おとぎ話の絵本から飛び出したような住宅などは見ていない。

それでも青空の下、ガウディが構想した環境調和型田園住宅開発の一端は十分堪能できた。

バロセロナ滞在は今日まで、明日はいよいよ北スペインへ向かう。まずは朝のバスでサラゴサ経由、パンプローナまで。




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バルセロナ市街の後背丘陵地に広がるグエル公園北東側の坂の下でタクシーを降りた。ここを少し上って左に入れば公園だ。




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昔はなかった入場券売り場(右手)辺りの混雑ぶり。




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入場券売り場周辺の路上には小間物を売る露店が沢山。




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似顔絵を描く商売も。




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入場券売り場から遊歩道を少し進むと眼前が開け、正面に公園のテラス状広場、左側にはバロセロナ市街が拡がる。




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テラス状の広場の縁にはガウディ特有の曲線と色調のタイルでできているベンチが110mにわたって続いている。ちょっと見ずらいが広場の突端部分はドーリア式の円柱群で支えられている。




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ガウディ作のベンチに座る人達とその先の市街をズームで。昔は普通の公園と同じようにここに来てベンチに座り、眼下の眺望を楽しむことが出来たのだが今は入場が必要。



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広場と散策路とは柵で仕切られている。画面中央あたりにサグラダ・ファミリアの尖塔が見える。




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歩いてきた散策路を振り返ればこんな風景。




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散策路沿いで立派な体格(?)の女性がカメラに納まっていた。




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南東側の散策路にあった公園の案内板。真ん中にテラス状の広場とそれを支えている86本の列柱群が見える。




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ここから下っていっても入場口に行ける。


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5.バルセロナ ⑤(サグラダ・ファミリア (1)) [15/9北スペイン]


 [宿→サグラダ・ファミリア聖堂]

バロセロナ3日目、こちらに着いてから不順な天気が続いていたが今日は快晴、この街にはこの天気が似合う。

今朝は11時にサグラダ・ファミリア聖堂内のエレベーター(上からの展望と工事状況が見れる)に乗る予約を持っている。この旅に出る前にオンラインで予約したもので、当日現地で入手するのは難しいと言われていて時間を有効に使いたい向きにはあらかじめの手配は必須だ。

泊まっていたマンションは市内の東側、旧市街の少し外側にあたるナプルス通り(Carrer de Nàpols、イタリアの町、ナポリに由来か)に面していた。
地図で確かめると、宿を出て(地中)海を背中にこの道を7ブロック(約1km)ほど山側に上れば右手にサグラダ・ファミリア聖堂が見えてくるはずだ。

11時のエレベーター搭乗に合わせて9時にマンションを出る。ナプルス通りと交差するこの町の幹線道路であるグランビアやディアゴナルなどの大通りを横切ったあたりまで来た時、右手の街並みの向こうに工事中のクレーンとともにサグラダ・ファミリア聖堂の尖塔が頭を出しているのに気づいた。


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宿を出て交差点をはす向かいに渡る。正面の8階建てが泊まっていたマンション。



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2ブロック進んでグランビア(Gran Via de les Corts Catalanes)を渡る。土曜日の朝ということで広い道路だが車は殆ど見えない。”グランビア”と言えばマドリードのそれが有名だが、この町のは10km以上延々と続く一直線のブロードウェイだ。この幹線道路が街を海側と山側とに分けている。




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歩道脇に置かれた大型のゴミ箱。日本と同じく生ごみ、プラスティック、ビン・カンなどに分別が必要。この大きな容器をどうやって空けているのか、収集車を見るチャンスはなかった。




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歩道の交差点角の壁面に「Carrer de Nàpols」(ナプルス通り)の表示。




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さらに進むと「ダラゴ通り」を横切る。スペイン語ならアラゴン通りだろう。この道路を西に8ブロック行けば昨日のカサ・バトリョがある。街はそんなに大きくない。





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そして街を東西に貫通している「ディアゴナル大通り」(Avinguda Diagonal)に出た。もう一丁行けばサグラダ・ファミリアが見えてくるはず。



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「マジョルカ通り」(Carrer de Mallorca)を右に曲がってサグラダ・ファミリア聖堂の尖塔が見えた。




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マジョルカ通りをさらにサグラダ・ファミリア聖堂に近づくといよいよその壮大さに圧倒される。



 [サグラダ・ファミリア聖堂]

サグラダ・ファミリア聖堂」(Basilica de la Sagrada Familia)はあまりにも有名、言うまでもなく建築家アントニ ガウディ(Antoni Gaudí 1852~1926)の代表作品だ。

1882年に着工され今なお建設途上にある。ガウディは詳細な設計図を引かず模型などを使って建築を進めたため後継者たちは残された模型などをもとにしてきた。しかしそれらもスペイン内戦時に消失してしまいその後は僅かに残されたデッサンなどの資料を参考にして工事は進められているという。

最終的には18本が聳えることになっているあの特徴的な尖塔(高さ100m前後、最高は170m)は、現在まだ8本が完成しているにすぎない。当初300年はかかると言われていた完成時期だが最近は大幅に短縮される見通しになり、ガウディの没後100周年にあたる2026年には構造体としての完成が予定されている。


工期短縮の背景には入場料収入からの潤沢な建設資金と近年のIT技術が構造計算などに活用されていることがある。確かにサグラダ・ファミリア聖堂」はスペイン有数の観光スポットで、年間300万人を優に超える見学者が来るのだからその収入は相当なものだろう。

ところで、この聖堂は巨大すぎて近づき過ぎると全体を写真に収めるのは難しい、ということで全景をバランス良く収めたいなら少し離れた西側または東側(ガウディ広場)の緑地から撮影するのがいいらしい。特に小さな池を挟んだ1ブロック西側のレパン(Lepant)通り側からがお薦めで、絵ハガキのような一枚が誰でも手に入れることができる。



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サグラダ・ファミリア聖堂」周辺図。このあたりも碁盤目の街区になっている。聖堂の右上に池を囲んだ緑地(ガウディ広場 Plaça de Gaudí)がありその先のレパン通り側が全景撮影のポイント。



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マジョルカ通りを進んでさらに「サグラダ・ファミリア聖堂」に近づく。



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 「受難の門」を左に見てまずは有名なガウディ広場の”撮影ポイント”に向かう。




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以下、撮影ポイント周辺から撮ったベストショットを3枚。



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絶好の快晴をバックに尖塔群が映える。



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前面に池を配したベストショット。



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この撮影ポイントは当然知られていて沢山の観光客がカメラを構えていた。



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撮影ポイントからズームアップして撮った一枚、永遠の象徴糸杉と群がるハトの飾りのようだが、よく見るとその右上横にエレベーターで昇った観光客の姿らしきものが見える。



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同じくズームアップの一枚、100m高所の工事現場。



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「生誕の門」側に戻ってきていよいよ入場。赤いシティツアーバスも停車中。



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時間は10時、すでに入場待ちの相当の列ができている。



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オンライン入場券を持っていたので「生誕の門」からの入場は殆ど手間取らず。



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救世主イエス キリストの誕生を祝福しているという「生誕の門」ファサード上部の彫刻群。このあたりはガウディが自ら手がけた部分で生きている間にほぼ完成したとされている。



 [聖堂内部、エレベーター乗り場へ]

一歩内部に入るとまずあまりにも壮大な空間に驚かされる。高いドーム状の天井とガウディらしい軟らかい曲線の列柱群、ステンドグラスから差し込む虹色の光が織りなす演出は神秘的な森の世界に迷い込んだような気分にさせられる。

壮麗、荘厳にして重厚、厳粛という言葉はここのためにあるといってもいい。そんな礼拝堂内部の雰囲気に呑まれて何度も周りを見渡し、頭上の造作を見上げることに没頭、ひとしきり眺めた後ようやく11時予約のエレベーターに乗るために「生誕の門」側の乗り場に向かった。

エレベーターは「受難の門」側にもあるが、どちらを上っても大差はないとのことだ。以前は「受難の門」の方は下る時もエレベーターを使えたそうだが、今は両方ともらせん階段を歩いて下らなければならなくなっている。もっとも昇りも下りもエレベーターでは階段を下る途中で見れる眺望も楽しめず、何のために上がったのかということになりかねない。

エレベーターからの眺望、その後に訪れる「サン・バウ病院」ほかは次回で。


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門を入ると数十mはあるだろう高い天井に驚かされる。大
ホールのような聖堂になっている。




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2006年5月に訪れた時の写真があったので添付。当時はまさしく建設中で全体が工事用足場で埋まっていた。


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それが今では見事に出来上がっている。



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祭壇と思われる方向の列柱群(全部で36本あるという)が見事。



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重厚な外観に比べて軟らかい曲線のデザインと幻想的な色彩の妙がガウディの世界を演出している。



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ステンドグラスから差し込む陽の光りは荘厳さをもたらす。



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「生誕の門」側のエレベーター乗り場。10人程度ずつ階段を上がって箱に乗り込む。建設当時は工事用としても使っていたのか(?)


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4.バルセロナ ④(グラシア通りほか) [15/9北スペイン]


 [サン・ジャウマ広場→グラシア通り]

グラシア通りへはカテドラルから歩いてでも行ける距離だが地下鉄「ジャウメ・プリメ」駅からダイレクトで行ける。バルセロナの地下鉄は11号線まであり人口160万の町にしては地下鉄網が発達していて中心部は特に密度が高い。

駅に向かう途中でカテドラルの裏手にあるサン・ジャウマ広場(plaça de Sant Jaume)に出た。
そんなに大きな広場ではないが、バルセロナ市庁舎や(カタルーニャ州の)自治政府庁が面していてバルセロナの行政の中心地だ。はるか中世の昔からこの町にとっては重要で由緒ある広場だったはずである。

市庁舎の横から緩い坂道を下ると地下鉄の赤いMマーク(地下鉄駅を示している)が目に入った。「ジャウメ・プリメ」の駅だ。「グラシア通り」はここから二つ先だから遠くはない。


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カテドラルを出たところで手をつないだ正装の老夫婦を見かけた。何か行事に出るのだろうか?


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バルセロナ市庁舎。中央屋上には3本の旗が立っている。左からカタルーニャの州旗、スペイン国旗、バルセロナ市旗だそうだ。



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市庁舎の前に改まった装いの男女が集まっている、これから何か式典でも始まるのか?さっきの老夫婦もここに来る途中だったのかも知れない。


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こちらは自治政府庁。入口のすぐ上に「Palau de la Generalitat」とカタルーニャ語で表記されている。カテドラルに近いこともありこの広場は観光客が溢れている。



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この坂を下りてきてサン・ジャウメ駅の入口を見つけた。



 [グラシア通り]

中世を思わせる狭くて薄暗い旧市街から地下鉄でわずか5分、階段を上って地上に出ると一瞬戸惑ってしまった。そこには広々とした明るい「グラシア通り」(Passeig de Gràcia)が整然と伸びていたからだ。

バロセロナ市街の地図を開くと中心は迷路のような旧市街、でもその広さはせいぜい1.5km四方ぐらいと意外に狭くその周りには
碁盤目の街区が規則正しく拡がっているのが分かる。

19世紀後半になって拡大するバルセロナの街の都市計画が検討されたとき、旧市街の外側に規則的に同じ大きさの街区(当初の大きさは133m四方)を反復させるというグリッド・プラン(札幌や京都の街ような)
が採用された。

グラシア通りもその計画に沿った街路で旧市街のカタルーニャ広場から新市街に伸びる幅60mはあろうかという幹線道路だ。両側にゆったりとした歩道の他に左右2本の中央分離帯が確保されていてバロセロナのシャンゼリゼとも言われている。

歩道沿いには19世紀末から20世紀にかけてバルセロナのムーブメントとなった「モデルニスモ」に由来する建物が並び一階部分は高級ブランドショップやレストランが軒を連ねて
いる。

ブランドにも買い物にもあまり興味がないのでブラブラ散策を楽しむだけだが、しばらく進むと
ある建物の前に観光客が集まっているのが目に入った。そばに「Casa Batlló」の看板が出ている、これがガウディ設計の「カサ・バトリョ」らしい。たむろしているのは入場待ちの行列らしくこちらも列の後ろに付くことにした。



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地下鉄「グラシア通り」駅で下車、階段を上ると道幅の広いグラシア通りに出た。



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歩道も車道もゆったり、プラタナスの並木もいい感じだ。何故すっきりしているのか?電柱・電線が一切ないことに気がついた。




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もう100年以上経っているだろう高級感漂う建物が続いている。




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スペインを代表するバロセロナ生まれのファッションブランド「MANGO」の店があった。1984年にバルセロナで1号店をオープンして以来「ZARA」と並んで全世界100ヵ国以上で展開中という。日本では圧倒的に「ZARA」だが「MANGO」も何店か出ている。




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「グラシア通り」と「ダラゴ通り」の交差点のあたり、カサ・バトリョが近い。この頃はまだ雲の隙間に青空も見えていたが・・・


  [カサ・バトリョ]

ところで「モデルニスモ」とは、1900年前後バロセロナを中心としたカタルーニャ地方で流行した新しい芸術・文化運動のことだが、カタルーニャ独自のアイデンティティを確立しようとする思想的・政治的な一面もありそれが現代にも息づいているわけだ。

当時のスペイン、特にカタルーニャではいち早く産業革命を終え、繊維産業などで成功した実業家たちがパトロンになってこれらの芸術・文化運動を支援していたことが「モデルニスモ」が盛り上がった背景にあると言われている。

それはさておき、建築分野では多くの建築家たちが当時の「アール・ヌーヴォー」の影響を受けつつバルセロナ独特の曲線の使い方や一風変わった装飾などを施した個性的な建造物が発表されていた。

「カサ・バトリョ」もその一つで「ガウディ」の作だ。今では「ガウディ」だけが飛びぬけて有名のようだが当時はそれほど目立つ存在ではなく、ドメネク・イ・モンタネル(代表作のサン・パウ病院には翌日行った。)などの方がもっと知られていたようだ。

ともあれ「カサ バトリョ」の前は入場待ちの人たちが広い歩道に溢れている。内部の見学といってもマンションの内覧会のようなもの、入れ過ぎないよう入場制限せざるを得ないのだろう。

中に入ると2軒分ぐらいのマンション内部を部屋から部屋を見て回るのだが、ガウディが設計したのは1904年の話だから100年を超えているのに今見てもその斬新な発想とデザインに驚かされる、天才の作とはこういうものか。


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歩道沿いに「Casa Batlló」の案内板が出ていた。



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「カサ・バトリョ」の入場券を求めて並んでいる人たち。内部が混んでいるのかスイスイとは進まない。



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普通のマンションだが、飛び出したベランダの円みを帯びたデザインや独特の模様などを見るとすぐ「ガウディ」だと分かる。



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建物前で入場を待つ人たち。


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「カサ・バトリョ」の前は平日の昼時なのだが観光客が絶えない。



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建物内部。大きめの一室にくるとやはり見学者で混んでいる。ソフトな雰囲気を醸し出す曲線を使った壁一杯の窓枠、イスラム建築を思わせるアーチ状の円柱など、これが個人用の住居だとは思えない。



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とんでもなく腕の長い(?)お嬢さん。耳につけているのは入場の際貸してくれるヘッドホン。所々のポイントで解説が聴けるのだが確か日本語の選択はなかった。



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ステンドグラス様のガラス張りの大窓(?)から自然光を取り入れている。資料によるとこの建物のテーマは「海」だそうだが、そう言われればはめ込まれたガラスの配置や配色を見ていると確かに海の底にいる気分にさせる。



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こんな部屋で日常生活を送っていたらどんな気分になるのだろう?




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「カサ・バトリョ」から「グラシア通り」を見下ろす。写っている歩行者は殆どが観光客のようだ。



 [カサ・ミラ→カタルーニャ美術館]

「カサ・バトリョ」を出てすぐ先にある同じガウディ建築の「カサ ミラ」も見てしまうつもりだったが、もう1時を回っている。「カサ ミラ」は後回しにして昼食のレストラン探しを優先、結局「グラシア通り」に平行した1本西側の「ランブラ・デ・カタルーニャ通り」で中央分離帯にあったテラス レストランに入った。

歩道側にあるレストランが夏場だけ広い中央分離帯にも出店しているらしいが、いくら道幅が広いといっても公共の道路敷で店を営業できるのは日本とは何かが違うのだろう。

これらのテラス レストランは並木道の樹陰に大きなパラソルを並べた屋台のようなものだが、開放的な雰囲気のテラス席で食事をするのが好きなヨーロッパ人にはぴったりのはずだ。
この店ではガスパチョと白身魚のソテーを選択、味はまずまずだったのだがそれ以上の印象は残っていない。

食事を終えて数分で「カサ ミラ」の前まで来た。ここでも中を見学する人達が列を作っている。
また列につくか迷っていたらついに曇っていた空からポツポツ雨が落ちてきて入場は割愛することに。

実は今日はこの後「モンジュイックの丘」に登り、少なくとも「カタルーニャ美術館」」を観てからロープウエイ(バロセロナ港の上を空中散歩できる、延長1km弱)でバルセロネータ(海岸沿いにレストラン街がある)へ行って海鮮レストランで晩飯という行程を考えていた。

雨はさらに強くなってきた。ここは臨機応変に取りあえずタクシーで「カタルーニャ美術館」に向かうことにした。この時の運転手とは乗っていた10~15分、話が弾んだ。「日本人は静かで紳士だねー、それに比べて中国人は・・・」てな話だったが、日本人に対する"バロセロナ流おもてなし(!?)"だったかも知れない。


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中央分離帯にある並木の下のレストラン。



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女の子が店先のメニューを吟味中、ウェイターがお薦めを案内している?




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注文した冷製スープ、ガスパチョ。



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白身魚のソテー。




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グラシア通りを挟んで筋向いに見る「カサ・ミラ」。20世紀初頭にこの建物ができた頃、地元ではその"醜悪さ"から「石切り場」(La Pedrera)と呼ばれて評判は悪かったそう。今では世界遺産に登録され周りにもすっかりなじんでいる。




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一切直線が使われておらず集合住宅として建設され現在も4世帯が居住中。屋上にある煙突が何かの彫刻に見える。




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さらに近くに寄って見上げるとすべてが曲線でできているのが分かるが果たして住み心地は?



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入場を待つ列の最後尾、雨が降ってきたこともあり列から離れた。




 [カタルーニャ美術館]

「カタルーニャ美術館」」(Museu Nacional d'Art de Catalunya)はあまりにも広大すぎた。1時間や2時間そこらでは象の鼻先をなでたようなもの。余程見たいものを絞って来ないと掴みどころがない美術館だ。

カタルーニャの美術・芸術を中心に、ロマネスク、ゴシック、近代それぞれの時代の作品が展示されているが、特にロマネスク様式(10世紀末から12世紀の教会美術などが主流)のコレクションが世界有数で、ピレネー山脈に点在する小教会の壁画を相当数そのまま移設保存して観せているのは迫力がある。

帰国してから分かったのだが、別のコーナーには「モデルニスモ」時代の絵画や生活家具なども展示されていたらしいが
記憶に残っていないから見逃していたのだろう。とにかく手に負えない広さだった。

美術館、博物館などに行って意義深く楽しむには好奇心もさることながら、相当の体力・気力・集中力が必要だとつくづく思う。自由に旅していても残念ながらそうそうそんな風にはならない。

美術館を出る頃になっても雨はまったく弱まる気配はなく、バロセロネータでの夕食も諦め、あっさりタクシーで宿に戻った。
その代わり、夜は近くのスーパーで仕入れた食材と昨日買ったイベリコ豚で例のワインとビールを堪能し晩飯に替えた。

明日はいよいよ「サグラダ・ファミリア」に行く予定。

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カタルーニャ美術館の正面。年金生活者は確か無料だった。


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1992年のオリンピックの時に名が知られようになった「モンジュイックの丘」から見る雨に煙るバロセロナの街。天気が良ければ下の写真になるのだが・・・



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天気が良い日のカタルーニャ美術館からの眺望。(公開資料から)



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雨の中で宮殿のようにも見えるカタルーニャ美術館。


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3.バルセロナ ➂(凱旋門ほか) [15/9北スペイン]

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バルセロナの凱旋門。十分立派だが生い立ちを知ってしまうとちょっと軽い感じも?




 [凱旋門→シウタデーリャ公園]

泊まっていたマンションの隣に小さいバルがあり、大体朝はそこで朝食をとった。
ボカディージョ(フランスパンを横に開き生ハムやチーズ、スクランブルエッグ、野菜などを挟んだもの)とカフェ コン レーチェ(カフェオレ)の簡単なものだ。

今日はバルセロナ2日目、午前中はまず宿から歩いて近くの凱旋門(Arc de Triomf)へ、さらにシウタデーリャ公園(Parc de la Ciutadella)を通って旧市街にあるピカソ美術館やカテドラル(大聖堂)に行くことにしている。

朝食後一度宿に戻り改めて街に出る。5分ほどでバルセロナの凱旋門の前に出た。立派に見える凱旋門なのにこの町には見ものが多いせいか、街を代表する観光スポットの扱いを受けてはいない。

それに内外の有名どころの凱旋門は実際の戦争の勝利記念として建造された曰くがあるのが普通だが、この凱旋門は1888年の万国博覧会の入場門として造られたもので、歴史の重み(?)に欠けるという生まれの違いも影響しているかも知れない。でもその威風堂々さはやはり我々日本人にはヨーロッパの建造物としての魅力を感じさせる。




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宿の隣のバル。カウンターと幾つかのテーブル席があり、朝の時間帯はいつも店主(?)が一人で応対していた。



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ハーフの生ハムのボカディージョとカフェ コン レーチェ(カフェ オレ)。フランスパン1本ではさすがに食べ切れずメディオ(=ハーフ)で頼んでいた。




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宿から5分も歩けば凱旋門の意味の「アルケ ダ トリオンフ(Arc de Triomf)」の地下鉄の駅がある。道路を挟んで向こう側に凱旋門が見える。



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堂々たる構えの凱旋門。高さは30m、それなりの迫力がある。



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イスラム教、キリスト教両方の特徴を取り入れた当時流行のムデハル様式が用いられている。この門は石造りではなく安価な煉瓦で造られているというのだが・・・ 万博の開催費用低減のため?





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門をくぐるとシウタデーリャ公園につながっている。



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アーチの上部には何やら装飾が施されたレリーフがある。笛を吹く天使とか女神像のほかに万博に関連して農業、商工業、科学芸術などをイメージした彫刻だそうだ。



   [シウタデーリャ公園→旧市街]

 朝の公園は散歩する人、その散策路を突っ切って仕事場に向かう人を見かける程度で観光客も少なく、むしろ緑濃い閑静な雰囲気だ。
この公園は1888年の万国博覧会が開かれた時にメイン会場として整備されたらしいがその前身には意外な歴史があった。

18世紀初頭、全欧州を巻き込んで内戦状態をもたらしたスペイン王位継承戦争(1701-14)でのことだ。
この地方では元々独立心の強いバルセロナを中心とするカタルーニャとそれを押さえ込もうとするマドリードの中央政府との間で熾烈な敵対関係が続いていた。

何度かの戦いを経て1714年、ついに中央政府がカタルーニャをねじ伏せたのだが、その後バルセロナ市民を監視する要塞をこの地に築いた。すなわちバロセロナ市民にとってここはマドリード政府の圧政のシンボルが存在したところということだ。その後前述のとおり万博の開催場所になって今につながる緑豊かな公園に変貌したのだが、市民にとっては好んで行きたい場所ではないのかもしれない。

こんな背景があるからこそ、サッカーの世界で有名なスペインダービー:「レアルマドリー」VS「FCバルセロナ」の試合がいつも熱く盛り上がり、カタルーニャの独立が現実の政治問題になっているのだろう。

公園の南、海に近い部分には動物園もあるが今回は寄っていない。
午前中に旧市街の核、ゴシック地区にあるピカソ美術館、カテドラルを周るべく公園の西出口を出る。この辺りから旧市街に入っていくので急に道が狭まくなり石造りの重々しい街並みが続く。突然中世の世界に迷い込んだようだ。

ピカソ美術館には数年前に寄っているが殆ど記憶になく、今回改めて抽象画以前の若い時代の具象画を中心にかなり見たがやっぱり素晴らしい。館内は撮影禁止、後になって記憶を呼び起こすきっかけを残せないのはちょっぴり
残念だ。
美術館を出て石畳の道をさらに200mも歩けばカテドラルに着く。




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朝のシウタデーリャ公園。地元の人がのんびり犬を散歩させている。


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1888年の万博時に造られた噴水やパビリオンの建物。当時学生だったガウディもこの公園の造園に参加したという。建物のてっぺんに金ぴかの塑像が見えるが・・・、何だろう?



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金ぴかの像は、馬車を曳くギリシャ神話の女神オーロラだそうだ。



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犬たちにとっては居心地の良い別天地だろう。



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公園の西側出口に野外音楽祭の看板が立っていた。毎年夏の夜に市内の公園でクラシック・ジャズの無料音楽コンサートが開かれているらしい。バルセロナがあるカタルーニャ地方ではカタルーニャ語が公用語なので看板もカタルーニャ語で書かれていて一層分かりずらい。


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ピカソ美術館の入り口の案内板。カタルーニャ語、スペイン語、英語の三段書きになっている。



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アーチ状の入口をくぐり小さな中庭の向こう側の1階と2階が展示部屋になっている。



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入口を入った突き当りには荷物一時預かり所(コインロッカー)や売店がある。撮影はここまで。




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ピカソ美術館を出てカテドラル方面に向かう石畳の街路は中世時代を偲ばせる雰囲気。



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薄暗い迷路のような道を辿りカテドラルの裏側あたりに出て来たようだ。




 [カテドラル→グラシア通り]

バロセロナの教会建築というとサグラダ ファミリア教会があまりに有名だが、古い歴史を持つ町だけに当然たくさんの教会がある。その中でカテドラル(大聖堂)と呼ばれるのはバルセロナの守護聖女サンタ・エウラリアを祀っているこの教会だけだ。

旧市街の中でも最も古いゴシック地区のシンボルがカテドラル、5世紀にはすでに原始キリスト教の教会があったというが、現在の建築は13世紀後半バロセロナ伯ジャウマ2世時代に建設が開始され150年かけて15世紀に完成している。

出入り口が5か所もあることを後で知りピカソ美術館から歩いて来て入ったのは曖昧な記憶ながら左側側面のサン・イウ門からだったようだ。内部の見学は原則無料、チェックらしいものもなく内部の写真撮影は自由など観光客にはフレンドリーなのだが・・・。

礼拝堂内に入るとゴシック様式の高い天井と美しいステンドグラスから差し込む光が醸し出す荘厳な雰囲気は訪れるものを圧倒するが、その通路に観光客の列が途切れることなく続くのはいささか興ざめ、静寂と厳粛さが保たれていてこそ礼拝堂だと思うのだが。

カテドラルを出て市庁舎や自治政府庁があるサン・ジャウマ広場をとおり緩い下り道を地下鉄4号線の「ジャウマ・プリメ」駅に向かう。「グラシア通り」は2駅目だ。


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カテドラルの側面。石造りむき出しの荒々しさに返って魅力を感じる。



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カテドラルのファサード(正面)はネオゴシック様式。やはり1888年の万博に合わせて改装されている。(公開資料から)



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カテドラルの内部。かなり暗いが撮影OK。




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カテドラルの天井部分。ステンドグラスが美しい。



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カテドラルの中庭から見えるファサードの尖塔。






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2.バルセロナ ②(コロンブスの塔ほか) [15/9北スペイン]

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イベリコ豚のハム屋の店先。アビラ(Avila)産でキロ49€(約6,600円)とあるからそんなに安くはない。味見させてくれるが、手前の大き目のパックで約2,500円のラベルが付いている。観光客価格?



 [サン ジュセップ市場→コロンブスの塔へ]

ラス ランブラス通りを4~500m下って右に入ると「サン ジュセップ市場」(Mercat de Sant Josep) がある。
この町最大と言われる市場だが繁華街のど真ん中にあるせいか地元民だけでなく観光客も多い。

入口辺りはひどい雑踏で行き交う人にぶつかりそうになりながら中に入ると、まず目についたのはイベリコ豚を売るハム屋、さらに色も鮮やかな各種の果物を綺麗に並べた果物屋、ナッツの専門店、貝類が目立つ魚屋、その他に肉屋、チーズ屋などがびっしりと並んでいる。今時のスーパーとは違って単品に特化した昔風の店が殆どなので見て歩くだけでも楽しい。

宿でゆっくりした時にと思い、味見をして旨かったイベリコ豚、量り売りのやぎのチーズ、隣接した小道の向いに見つけたワインショップで手頃なワインを一本購入した。
市場内部には何軒かバルもあって新鮮なタパスをつまみに飲んで食べることもできたようだが先を急いだ。

市場を出てランブラス通りに戻りさらに港に向って進むと右側に「リセウ劇場」(Gran Teatre del Liceu)がある。ヨーロッパを代表する歌劇場のひとつだそうで、1847年に完成した時は座席数3,500の大劇場(現在はゆったり目の2,300ぐらい)だったという。当時からバロセロナが如何に裕福な町だったかが想像できる。

さすがに腹が減ってきた、そう言えば昼にこの町に着いてからまだ何も食べていないことに気づく。その目で見渡すと道沿いにはレストランのメニューの看板が沢山並んでいる。比べている余裕もなく飛び込んだのはリセウ劇場の並びの店、看板で目星を付けていたパエージャのセットメニューをオーダーしたが値段の割には味はまずまずでスペインでの最初の食事を堪能できた。


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サン ジュセップ市場の入り口付近。かなりの混雑。



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市場の内部、混雑はいくらかマシ。




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市場内の様子は昔のそれとあまり変わっていないのだろう。



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カットフルーツのカクテル、プラスチックのカップ一杯で1ユーロと1.5ユーロの2種類がある。



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ナッツ屋。日本では見られないいろんなナッツが並べられている。



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魚介類の店。手前はホタテ貝か、貝類も種類が豊富。



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市場と小道を挟んだ向かいにワインの専門店があった。



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店の内部、店のお兄さんが手頃な赤ワインを選んでくれた。




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見上げると「TEATRE DEL LICEU」の文字が壁面に見える。「リセウ歌劇場」だ。


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劇場の入り口。公演とは関係なく入場料を払えば内部見学も出来るらしい。



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ランブラス通りに面したレストランで食べたパエージャ。手頃な値段のセットメニューだったので出てくるまでどんな具合か気になったが味も内容もまずまずでコストパフォーマンスは悪くなかった。海鮮、肉、ミックスを注文してシェア。


 [コロンブスの塔]

レストランを出るとにわか雨があったのか歩道が濡れている。雲が拡がってしまい日が落ちる時刻と重なってちょっと薄暗くなってきた。

急いでランブラス通りの終点にある「コロンブスの塔」(Monument a Colom) に向う。1888年の万博時に建てられたという60mの塔頂にはコロンブスの像が立っている。右手で海の方向を指しているが新大陸を指さしているわけではないそうだ。

海岸道路とランブラス通りが直交するロータリーに建っている塔は細身に見えるが塔心にはエレベーターが通っていて展望台に上れるようになっている。
塔直下の切符売り場で確かめると営業時間終了までまだ30分ちょっとはあるというのでお上りさんよろしく昇ることに。エレベーター(定員は3人位で狭い)前には2~3組のグループが順番を待っていたが何とか時間内に上ることができた。

狭い展望テラスに出ると夕暮れと低い雲のせいで見通しはイマイチだったが、周りに高い障害物がないのでバロセロナの街を360度のパノラマで楽しむことが出来た。目を凝らすとサグラダ ファミリア教会の工事中クレーンが何本かの針のように立っているのが見えた。

明日は旧市街(ゴシック地区)からバロセロナのシャンゼリゼと言われるグラシア通りに出てモンジュイックの丘に行く予定。




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レストランを出てまたランブラス通りに戻るとやや怪しい天気に。大道芸を見物している人たち。



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ランブラス通りが終って海岸に出たところに「コロンブスの搭」(高さ60m)が聳えている。



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塔のそばまで来ると土台の部分は結構大きい。海側に回って半地下の階段を降りると切符を売る窓口がありエレベーターの乗り場につながっている。



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現地時間で20時近く、雲が低くなり暗くなってしまって塔からの展望は視界が効かない、残念 !!。



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目を凝らすと中央にサグラダ ファミリア教会の工事中クレーンが見える。



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海側に回ると眼下にバルセロナ港が拡がる。丁度バレアーレス諸島行きフェリーが出航するところ?




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右手のモンジュイックの丘から埠頭にあるトーレ・デ・サン・セバスティアにつながるロープウエイに乗れば、港の上空を空中散歩できる。


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1.バルセロナ ①(ラス ランブラス通りほか) [15/9北スペイン]

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バルセロナのシンボル、サグラダ ファミリア教会には三日目に訪れた。


 
 [初めての北スペイン]

これまでスペインには何回か行っているがすべてアンダルシアを中心にした南部ばかり。勿論、紺碧の地中海といつ訪れても太陽が輝く温暖な気候に魅せられてのことだ。
しかし、今春北スペインに行く話が仲間内で出て、これは願ってもないチャンスとすぐ検討を開始した。

旅はすべて自分達で勝手気ままに手作りすることとし、日程は勿論、飛行機の手配、宿の予約、現地での移動など自ら手配することにした。
今時はネットがあるので情報は簡単に集められる。あとは手に入った情報を根気よく吟味し比較して決めていけばよい。
この過程は結構楽しくて本チャンの前に一度机上で旅をしている気分にさせてくれる。

今回のルートはバルセロナを起点にサラゴサ経由パンプローナへ、さらに北に上ってビスケー湾に面したリゾートの町サン セバスチャン、そしてバスク地方の中心都市ビルバオに回り、最後はマドリードに出て帰国という2週間の日程になった。
移動はすべて手っ取り早い公共のバスを利用することにした。

以下、写真を見ながらその時の状況を思い出しつつ、折々を辿ってみよう。


 [成田→イスタンブール→バルセロナ]

少しづつ日没が早くなった9月、まだかすかに明るさが残るうちに成田空港に到着。
今回の便はイスタンブール経由バルセロナ行きのトルコ航空の夜行便、結構日本人客も多くて殆ど満席状態だった。

日本発はさすがに定刻どおり、予約の席は通路側、すでに隣りには若い外国人カップルが座っていた。
どこの国の人かと思い、時折聞えてくる話声に聞き耳を立てていたがあまりにも早口で何語かさえも分からない。でも長い機中、あるところで聞き取れた一言は何とスペイン語だった。

ライトが消された夜中の数時間が過ぎ朝食がサーブされる頃になってようやく話しかけるタイミングがきた。こちらがスペイン語を少し話すのが分かると気さくな反応を返してくれた。
彼らは夫婦で、スペインのリゾートとして有名なカナリア諸島から日本へ観光(新婚旅行?)に来た帰りとのこと、如何にも人の良さそうなダンナは不動産経営者、美人でインテリ風の奥さんは何と弁護士だとわかり、二人の人柄がにじみ出る品の良い話ぶりに納得した。

日本ではスペイン語をしゃべる機会がなかったとか、彼らにとっても思いがけなかったようで拙いレベルでも結構話は弾み、別れ際にはテネリフェ島に来たら案内するからと頼んだわけでもないのに連絡先のメモをくれた。
偶然とはいえ、隣りになった彼らのお蔭で、語学訓練(?)も兼ねつつ楽しいひと時を過ごさせてもらった。


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平日の夕方、成田線は通学時間も終えたのかガラガラ、ローカル線の雰囲気でのんびりしたもの。


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車内から見える風景はそろそろ日没が近い。



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成田駅で快速エアポートに乗換え。



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概ね2時間前のチェックイン、特段の混雑もなくスムーズ。



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今夜の便はTK0053(トルコ航空)便でまずイスタンブールに向う。搭乗口47番ゲートを確認。



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まだ出発まで時間がある47番ゲート。閑散としている。


 [イスタンブール空港]

正味12時間のフライトで夜明け前イスタンブールアタチュルク空港に到着。勿論初めての土地。ここでトランジットし、バロセロナ行きの便に乗換える。

この空港はイスタンブールの町の欧州大陸側にあるとのことで既にヨーロッパ大陸に足を踏み入れたことになる。
乗換えのコンコースで出発便のボードをみるとその便数の多さに驚く。トルコ最大の空港でありハブ空港として西欧・東欧・中東の諸都市を中心に殆ど全世界とつながっているようだ。

2000年代当初に国際線ターミナルが新設され増強も行われてきたようだが、眼前の利用客の多さ、待合ロビーの手狭さを見ると既に限界に近づいているのは明らかだ。

ボードにはバロセロナ行きの便名は出ているもののゲート番号は空欄のまま、それでも出発の1時間前になってようやく番号が表示され搭乗口へ移動した。



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コンコースの出発便案内ボード。



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出発便のボードには 7:35 から 11:15 までの出発便が掲示されている。殆ど5分間隔で続いている。ヨーロッパ全域を中心に北米・南米・アフリカ行きも含めて結構な便数だ。まさしくこの地域のハブ空港なのだろう。



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ようやくボードに出発ゲートの案内が出てそっちに移動するが、早朝にかかわらず待合ロビーはかなりの混雑だ。
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夜が明けたイスタンブールの空港。見えるのはトルコ航空の機体ばかり、ここはトルコ航空の本拠地だから当然のこと。




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イスタンブール発バロセロナ行きの機材(エアバスA330)、出発ゲートからはバスで向かい久しぶりにタラップを上った。



 [バロセロナの宿]

バルセロナには定刻どおり11時半に到着。
EU圏への入国はここバルセロナになるのでそれなりの審査を覚悟していた。トランジットとはいえ最近何かと世界の眼が集まる中東のトルコ経由で来たので身構えていたのだが、あっけない審査で気が抜けてしまった。

空港では宿に向う前に一仕事を済ませる必要があった。
今回の宿はホテルではなく”アパートメント”をネット予約していたのだが、予約時に空港に着いたら電話連絡するように言われていた。アパートの鍵の引き渡しや宿代の支払いなどの手続きがあるからだ。

通話できるスマホを借りて指定の番号に電話してみるとスペイン語で応対してきたので、名前を名乗り空港に着いたこと、これからタクシーで宿に向うことを伝えた。

その住所は空港からはバルセロナの中心市街を挟んで反対側のアシャンプラ地区だ。
タクシーの運転手に住所を見せると30分ほど走り、整然とした碁盤目の街角に面したマンション風の建物の前に車を止めた。ここで待っていれば宿のオーナーが現れるだろうと思っていたら、建物の扉が開いて若い男二人が我々に入れという。

建物は普通のマンションのようだったが、2階でエレベーターを降り一軒のリビングに案内された。
彼らはフランス人の大学生(スペイン語はしゃべれない(!?)ので英語でという)とのことでオーナーに代わって宿泊手続きを任されているらしい。

用意していたのは定型の契約書らしく設備内容、宿泊費、宿泊条件などについて説明し始めた。
全体で80㎡、部屋数もリビング・ダイニング、キッチンの他に寝室が3つ、トイレが2つあり3泊4日の宿泊には十分。

ドンチャン騒ぎは絶対にダメ、22時から8時までは騒音を立てないこと、禁煙厳守、使った鍋・皿などは洗って戻すこと、出たゴミは分別して街路にあるボックスに捨てることなどの項目が契約書にあり、一つひとつ確認し合う。そんなことが終わってようやくサインとなり、宿代と保証金(何事もなければ後で全額戻る)をカード払いして部屋の鍵を受け取ることができた。

このマンションは予約サイトで探し出した候補の中から、立地、値段、部屋数などを吟味して選んだもの。最近日本でも話題になっている”民泊”(部屋貸し)とは違い、丸ごとの一軒貸しなので家族単位などで少し長期間、自炊しながら経済的に滞在したい向きなどには悪くない選択だろう。

日本の民泊ではこれほど契約をキチンとやっているか知らないが、管理人が常駐していないマンション一軒を足掛け4日間占有するのだからやむを得ないとは思う。バルセロナではこの手の宿泊方式はごく当たり前のことになっているようだが、後で泊まった他の町ではこれほどの厳密さはなかった。

すぐ近くにスーパーもありある程度の料理をすることもできたのだが、結局台所は殆ど使わずじまいでちょっぴり残念ではあった。

これでバルセロナの宿は確保できた。成田を飛び立ってから丸一日、その間2~3時間しか寝れていないところに安堵感が加わって疲れと眠気がどっと襲ってきた。



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3泊したマンションの建物、アシャンプラ地区のNápols通りに面しサグラダ ファミリアから数ブロック下がってきた辺りになる。




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建物は築××年?、滞在したのは2階の角のあたり。



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リビング、ここのテレビはついにつけ方(?)が分からなかった。




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寝室の一つ。




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キッチンの一角。冷蔵庫、レンジなどの家電、必要な調理器具・食器類はひと通り揃っている。




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リビングから見る外の景色。交差点の角に面していたが騒音は気にならなかった。


 [北バスターミナル→カタルーニャ広場→ラス ランブラス通り]

眠いとはいえ、まだ午後の3時だ。でも寝てしまうと時差調整が乱れてしまう、ここは我慢して周辺の偵察も兼ねて街に出てみることにした。

マンションを出て最初に行ってみたのは1ブロック先の北バスターミナル。明々後日の朝、このターミナルからバスでパンプローナ方面に向かうことにしているのでその下見だ。
ターミナルはすぐ判ったがこの町の規模からすれば古ぼけて荒れた感じのバスターミナルだったのはちょっと意外だった。きっと近い将来建て替えられるだろう…

切符の窓口などを調べていたら2階に自動販売機があるのを見つけ、あっさり3日後のサラゴサ(パンプローナへ行く途中で下車する予定)行きの切符をゲット、思いがけない収穫だった。以後自動販売機にはいろいろな町・場面でお世話になる。
自動販売機はしゃべる必要がないので窓口と比べると楽なのだが、通じるかどうか不安を感じながらの窓口購入のスリル(?)を楽しめないのは勿体ない気もする。上手く買えた時はそれなりの達成感がある。

この後すぐ近くの地下鉄1号線のアルコ デ トリウンフォの駅から二駅先の観光の中心地、カタルーニャ広場に向った。地上に出ると昔見た景色が拡がっていて一安心。
ここはバロセロナ観光の起点であり、スリ・置き引きの多発地帯としても有名だが相変わらず観光客で一杯だ。

広場はブラブラ横切っただけでラス ランブラス通りに入り港方向に下ることにする。
この街路は、広い中央分離帯が遊歩道になっていて至る所でやっている大道芸を見ながらそぞろ歩きが出来るバロセロナの名物通りだ。


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北バスターミナルの正面は立派に見えるのだが、中の施設は古めかしい印象。



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2階に上がるとALSA(スペインの主要バス会社)の自動販売機が並んでいた。



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カタルーニャ広場。奥の建物はエル コルテ イングレスのデパート。



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噴水の周りは観光客で一杯。置き引きに要注意!!



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広場の一角が市内ツアーバスの発着場になっている。このバスに乗れば効率よく市内を回れるのだが、今回は見所が決まっていたので利用せず。



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ラス ランブラス通りの広い遊歩道。



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歩いているのは殆ど観光客のようだ。



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日が傾いてきた夕方のラス ランブラス通り。道路沿いの建物はセルス リボリ ランブラという四つ星ホテル。この後すぐそばの「サン・ジュセップ市場」に向った。


 (以下、「バルセロナ②」に続く)


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9.アンティグア生活つれづれ③(マヤ音楽博物館他) [グアテマラ アンティグア]


アンティグアに住んでみて:マヤの音楽博物館 ]

ラ アソテア文化センターのコーヒー博物館については前回触れたが、その隣に「Casa K'OJOM」と呼ばれるマヤの音楽博物館が併設されている。

マヤの無形文化遺産とも言うべきマヤ民族音楽を中心に彼らの祭事・風俗などに関わる展示品を見れるほか、ミニシアターでは伝統的なマヤ族の祭りや生活の様子も映像で観ることができ珍しい体験ができる。

タイミングよく10人ぐらいのグループに加わって見学開始、民族衣装の女性がゆっくりした歯切れの良い西語で説明してくれる。一回り30~40分ぐらいか。

今回訪れたのはスペイン語学校の課外授業としてで西語のヒアリングとマヤ文明の文化理解の一助になるからというもの。しかし、必死に耳を傾けても分からないものは分からず断片的にしか聞き取れない。まだまだ先は遠いことを再認識。

展示されているのは、巻貝から作ったほら貝、セラミック製のオカリナ、木を削って作っただろう縦笛や横笛、カメの甲羅を空洞にした小太鼓、ヤギの皮を張った大太鼓、木箱を手で敲く太鼓、小さいひょうたんの種を残して乾燥させた(?)マラカス、各種のマリンバ、さらには名前の聞き取れない原始的な楽器もあったが、案内してくれた女性がすべての楽器を吹いたり,敲いたりして音色を聴かせてくれた。

・・・が、昔マヤの人々が奏でていたリズム・メロディーがどんなものだったのかは分からない。
スペイン人が入ってくる前の時代の楽譜は勿論、記録もないため実際のところはよく分からないようだ。
いずれにしても、なかなか面白い博物館だった。もしアンティグアに行くことがあれば必見だ。



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「マヤ音楽博物館」(Casa K'OJOM)に通じる入口。





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左に行くと「Casa K'OJOM」の音楽博物館、右はコーヒー博物館の案内板。



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館内を案内してくれたグアテマラ美人のお嬢さん。幾つかの小部屋に分かれたディスプレイは勿論、マヤの民族音楽に使われていた各種の楽器(打楽器が多い)を実際に演奏しながら親切に説明してくれる。

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マヤ文明は、グアテマラを中心に、北は今のメキシコ チャパス州、ユカタン半島、南はホンジュラスまで拡がっていた。それはピラミッド遺跡の存在が証明しているといい、22の多種言語が共存するむしろ統一感のない国だったようだ。

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ガイドの説明に聞き入る人達。展示室は基本的に暗くしてスポットライト効果を高めているので写真の撮影は辛い。

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貝殻(大型の巻貝?)から作った楽器をを吹いてくれた。音色はほら貝そのもの。

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左腕でカメの甲羅を下にして抱え、右手に持ったスティックでお腹の部分を敲いて音を出す。



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木製の箱(?)を手のひらや指で敲く。



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羊の皮を張ったタンボール(太鼓)を叩いてくれた。



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携帯しながら敲く縦型のマリンバ。



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背中にしょったマリンバ。




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いわゆるマリンバ。恐らく植民地時代に入ってからのものだろう。



[ アンティグアに住んでみて:食のこと ]

わずか1ヶ月だったが、グアテマラの田舎町、それも現地の家庭にホームステイさせてもらった。
昔南米の国で生活した経験があったので日常生活であまり困ることはなかったが、こちらが歳をとったせいかちょっとしたことで戸惑うこともあった。

しかし、食に関していえば、下宿した家庭はこの国では中の上レベルと思うが、毎日外国からの語学生を相手に食事を提供しているせいだろう、無国籍な料理(野菜・果物・卵・鶏肉・パンなどが中心)が出ることが多く内容についてはあまり問題はなかった。

時にはトウモロコシの粉から作ったトルティージャやフリホーレス料理(frijores:煮たインゲンマメをつぶしたもの、甘くはない。)、タマル(tamal:とうもろこし粉の皮にトマトソースで煮込んだ鶏肉や野菜をくるみ、バナナの葉で包んで蒸したチマキのようなもの。)なども出してくれて定番の地元料理も楽しめた。

トルティージャは地元ではパン代わりの主食なのに最近は自前では作らなくなっているらしい。というのは、この町では日本のコンビニのようなティエンダ(Tienda:元々店という意味)と呼ばれる小さな雑貨屋がここそこにあるのだが、昼時になると店の一角に蒸かし器が置かれてホカホカのトルティージャが売られているからだ。

直径15cmぐらいのやつが3枚で20円ほどだからトウモロコシ粉から手間をかけて作るよりは店で買った方が楽ということか。
12時に学校が終り下宿に戻る途中で何枚か買って帰り、小腹がすいた時に別途買っておいた唐揚げなどを包んで食べたことを思い出す。


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ある日の下宿の朝食。フルーツジュース、フルーツサラダ付きスクランブルエッグにパンとカフェオレという今風の健康的なもの。


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真ん中の赤い看板が付いた店は焼き鳥屋でここで唐揚げを買った。戸口上に付いている看板を見ると何屋さんか分かる。画面の右隣は宝石・時計店、焼き鳥屋の左隣りは会計事務所の看板、さらにその左は印刷所のようだ。この町の商店街では防犯上の理由なのか、このような入口の狭い店が普通で閉鎖的な印象を与える。


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ある食堂で出てきたホカホカのトルティージャ。



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定食屋の入口横でトルティージャを焼いていた。焼き上がったら蒸篭(せいろ)で蒸かして出来上がりだ。


   [ アンティグアに住んでみて:アイスクリーム ]

ところでアンティグアで感激したことの一つは旨いアイスクリームに出会えたことだ。
「Café Condesa 」というレストランのアイスクリームは秀逸だった。ほかの店でも旨いのかは定かでないが、とにかくこの店のアイスクリームは原料の牛乳と卵黄の味が絶妙で、甘すぎずくどすぎず何か懐かしい上品な舌触りは今でも時々思い出す。

同宿の滞在歴の長い若者が連れて行ってくれたその店は中央公園に面した本屋を通り抜けその奥にあった。
表通りから20mも入ると小ぶりのパティオがあり、庭の部分とそれを取り囲む回廊部分がカフェになっていて雰囲気もいい。

最初に行ったときはコーヒーと普通盛りのアイスクリームを頼んだのだが、その旨さが忘れられず後日再度出かけ、ドブレ(ダブルの意)を注文し心ゆくまでその味を堪能したものだ。
これも、アンティグアを訪れることがあったら絶対に外せない穴場だ。

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最初に食べた時の普通盛りのアイス。とにかくミルクと卵黄が絶妙なバランスでねっとりしているがそれでいてくどくなく昔の懐かしい味にすっかり感激。


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前回食べた時の味が忘れられず日を改めて二回目に挑戦、ダブル(ちょっとしたドンブリだ!!)を注文。これでも400円もしない、その安さにまたまた感激。パティオの席で。


   [ アンティグアに住んでみて:生活インフラ ]  

 海外に出ると日本の日常生活があまりに居心地が良く、便利で快適なことに改めて気づかされる。
とにかくあの暖かい便座と柔らかくて上質なティシュペーパーの肌触りが懐かしくなるのは、歳を取ったせいだけではないだろう。

日本の生活の質が今のように高くなったのはそんな昔でもないが、そのせいで日本人が過保護になっているのはやむを得ないことかも知れない。最近の日本の若者が外国に出たがらないのはそのせいだということを聞くにつけ、こちらで生活してみると確かに彼我の差を感じる。

滞在していた部屋の壁には節電の張り紙があったから家主は電気の無駄遣いに相当気を使っていたようだが、この国では今の時代でも偶に停電がある。
恐らく電力供給能力がかつかつで余裕などはないから、ちょっとした故障が起これば即停電ということになるのだろう。

シャワー(普通バスタブはない。)を使っているときに停電があるとポンプが止まって水が出なくなったり、簡易なシャワーでは電熱線で水を温水にしているケースもありお湯が水しか出なくなる時もある。
下宿のメインのシャワーはガス(プロパン)を使っていてタンクにお湯を貯めておく方式だったので、停電でなくても二番手で入るとお湯が途中で切れてしまうこともままあった。

水事情も全く同根で貧弱な上下水道設備を騙しだまし使っているのだろう。恐らく上水道はポンプ能力不足、下水管は管径不足で時折水圧低下や管づまりなどの問題を起こしていたようだ。(とは言えアンティグアの街中は普通に水洗トイレが普及している、念のため)

僅かな経験でモノを言うのも憚るが、グアテマラの1人当たりGDPは  3800ドル(参考ながら日本は 36,000ドル台、IMF統計)程度だから電気・水道・ガスなどの生活基盤は勿論、もっと幅広い社会システムに問題を抱えているのはむしろ当然かも知れない。
日本にいると当たり前のことが、本当は当たり前でないことに気づかされた滞在だった。


 ( 以上でこの旅記録は終りです。)


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8.アンティグア生活つれづれ②(サッカー他) [グアテマラ アンティグア]



 [アンティグアに住んでみて:サッカー ]


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アンティグアのサッカー場(ペンサティーボ市営スタジアム)のピッチ。収容能力8,000人だがこの日の観客数は2~3千人といったところか。バックスタンド側から。
影。

グアテマラのサッカーは最近のFIFAランキングで90位(日本50位)だからそんなに強くはないが、それでも国内リーグ(1部は12チームで構成)がありシーズン中は毎週試合が行われている。

アンティグアにも「アンティグアGFC」という地元プロチームがある。1部(リーグ)と2部を行ったり来たりの状況で残念ながらあまり強くはない。
だから国内で優勝したことはないが2001年に唯一1回だけ準優勝の記録が残っている。

ところで、アンティグアの町にも小さいながらサッカー場はある。
そのことは出発前に見たブログで知っていたので是非そこで試合を見たいと思っていた。

現地に来て西語のクラスで聞いてみると、「毎週ではないが、普通日曜日の昼間にやっているはず」という情報があった。
ある土曜日街に出た時に観光案内所で聞いてみたところ、応対の男性は「明日の日曜は試合があるよ。」と言う。

早速、サッカー場の場所を地図で調べると先日スペイン語の課外授業で行ったコーヒー農園(ラ アソテア)の手前にあり、歩いても30分ぐらいで行けそうだ。

日曜は休息日だから下宿にいても食事のサービスはない。
それなら早めに街に出て朝食をすませ、それから11時キックオフの会場に向うという計算で下宿を出た。
朝食はセントロに近い一度入ってみたかったレストランに決め寄ってみたまではよかったがちょっと甘かった。

立派な門構えの店でちょっと入りずらいところもあるが、とにかく中に入ると大きなパティオがありテラス席でも食べられるようになっている。
日曜の朝ということで遅めの朝食を楽しんでいる観光客などで結構混んでいたせいか、頼んだパンケーキのセットがなかなか出て来ない。

結局朝飯を済ませるのに思わぬ時間を食ってしまい、急いでサッカー場に向かったものの、 ”ペンサティーボ(PENSATIVO)"という名の付いた市営のサッカー場には遅刻、すでに試合は始まっていた。



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あるレストランのパティオ(中庭)にあるテラス席。




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中庭に面して回廊があり手入れが行き届いた緑もセンスがいい。


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どこの国も同じで贔屓チームのユニフォームを着た連中の後を追えば間違いなくスタジアムに辿り着く。
隣り町のホコテナン(Jocotenango)に向う街道から右に入るとそれらしき建物が見えた。




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正面にペンサティボ市営スタジアム (Pensativo Estudio Municipal) とある。並んだ切符売場はPreferente (優先席、バックスタンド) とGeneral (一般席、ゴール裏) の窓口で、前者30Q(約400円)、後者は25Q(約300円)だったので前者を購入。因みに名前の"Pensativo"とは「物思いにふける」とか「考え込んだ」と辞書にある。これが市営サッカースタジアムの名前なの!? よく分からんが別の意味があるのかも・・・




ピッチはサッカー専用、全面天然芝で手入れもよく思いのほか本格的だ。一方観客席はコンクリート製の階段が座席、個人シート席ではないが天気さえ良ければ観るには支障はない。昔の日本もこうだった。

周りを見渡すとご多分に洩れず熱心なサポーター風の大人が圧倒的だが、子供(時に犬連れ?も)を連れた家族も結構見かける。
日曜日の昼時、家族皆でのんびりアイスを舐めながらのサッカー観戦、そんな風景はアンティグア住民の普通の生活なのだろうか ? 新しい中産階級が増えているのかも知れない。
とに角、どこの国に住んでいても休日の過ごし方などはあまり違いはないのは確かなようだ。

後で調べると「アンティグアGFC」はこのシーズンは2部所属で、相手サカチスパとは実力差があったのか、それともホームゲームのせいだったのか、スコアは6-1の大勝だった。



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地元チームのユニフォームは緑に白の縦縞カラー。こちらから見るゴール裏の一般席は結構埋まっている。


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目の前で一人のプレーヤーが負傷、しばし立ち上がれず試合は中断。



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地元チームがゴール!!!  立ち上がりタオルを振って大喜び、いずこも同じだ。空にはあらかじめ用意していたのだろう紙吹雪が舞い上がった。




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スタンドではおばさん、娘さんの売り子がスナック菓子やアイスを売りに来る。




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アイスで一杯の箱を抱えたおばさん。左側にいる家族ずれの子供がアイスをねだっている(?)。



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犬にまでユニフォームを着せた若いお父さん(?)。



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供(?)に見える売り子さんも。



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バックスタンドのスコアボード。前半を終わってアンティグア(Antigua)対サカチスパ(Sacachispa)戦は5-1の大差、この後6-1で終了。



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試合は終了、勝ち試合に満足げな雰囲気で出口に向かうサポーター。


(以下、「9.アンティグア生活つれづれ③」に続く)


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7.アンティグア生活つれづれ①(コーヒー農園) [グアテマラ アンティグア]

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コーヒー農園(フィラデルフィア農園)の正門。
門をくぐると山すそまで続く広大な敷地にコーヒー畑は勿論、収穫後のコーヒー豆の精製施設、乾燥場、製品倉庫、テイスティングルーム、売店、レストラン、ホテルまで揃っている。





 [ コーヒー農園 ]

日本人が”グアテマラ”と聞いて何を思い浮かべるだろうか、中米にある"国の名前"というよりも”コーヒーの銘柄”を思う人が多いのではないか、むしろコーヒー以外思いつかないというのが普通かも知れない。

グアテマラコーヒーは甘い香りと芳醇な風味で特に日本人好みの豆として意外に人気があると聞く。                  

人によっては”ティカル(Tikal)遺跡”を挙げるかもしれない。メキシコ国境に近いユカタン半島南部にあるマヤ文明の大規模遺跡なのだが、将来もっと有名になればこの国の”代名詞”になるかも知れない。今はまだそこまではいっていないが・・・。

images[4].jpgティカル(
Tikal)遺跡のⅠ号神殿。




さて前にも少し触れたが、アンティグアはグアテマラの中でもコーヒーの名産地なのである。

それは、1,500m(産地標高1,350m以上が最高級品質と言われる)の標高があって昼夜の寒暖差があること、周辺の火山起源の火山灰質土壌はミネラル分が豊富でコーヒー栽培に適していること、雨期と乾季があって適度の降雨量があることなど、良質なコーヒーが育つための自然条件がそろっているためでまさしく神のおぼし召しだ。

アンティグアの周辺にはコーヒー農園(フィンカ:Finca)がいくつかあるようだが、今回の滞在中に2か所訪ねることができた。

最初に訪れたのは旅行社に申し込んで見学できたフィラデルフィア農園。
キャノピー型(ジープ型)のトラックで市内から送り迎えしてくれて農園では専任のガイドがきっちり案内してくれた。

もう一つは、ラ・アソテア(La Azotea)という総合文化施設。
ある日スペイン語の授業にいくと先生が「今日は天気が良いから課外授業にしましょう。」と言ってセントロから専用のシャトルバスで連れて行ってくれたのがここだ。街の中心から北西に約3kmほど、フィラデルフィア農園とも近い。

内部に
コーヒー博物館や民族音楽博物館などがあり、こじんまりだがしっかりした内容でガイドの説明も丁寧で好印象だった。隣接してコーヒー畑と精製所があり商業生産も行われている。


以下、写真で農園でのコーヒー栽培と精製のプロセスを追ってみよう。


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朝フィラデルフィア農園から迎えにき
てくれたキャノピー型トラック。一緒の見学者もいるのではと思っていたがこの車に乗ったのは我々だけ。


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こちらは総合文化施設「ラ アソテア」を往復している専用の小型シャトルバス。




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ラ アソテア構内のコーヒー精製所入り口。




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右に行けばコーヒー博物館の案内。




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コーヒー博物館では大きなパネルを使って男性ガイドが説明してくれた。まずコーヒーの起源・変遷などを話した後、世界の生産量と品質の説明が続く。彼のスペイン語は歯切れがよくゆっくり話してくれるのでスペイン語学習者には格好だ。


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生産量はブラジル、ベトナム、コロンビアが御三家でグアテマラは8番目で多くないが、品質的にはエチオピア、ケニヤに続いて3番目に品質が高いのだそうだ。(コーヒー博物館)





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ガイドが手に持っているのはプランターに入ったコーヒーの苗木。説明を聞いているのは10人ぐらい、学生風の若い女子や年配のカップルもいた。彼らはどこから来ているのか?スペイン語の説明だから他の中南米から来た人たちか?それともアンティグアでスペイン語を勉強している欧米の学生?。(コーヒー博物館)




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壁面一杯に張られたコーヒー育苗場の写真の前でガイドの熱弁が続く。
コーヒーには香りが良く高品質だが根が弱いといわれる「アラビカ」種と品質はやや落ちるが根が強い「ロブスト」種があるが、ここでは苗木にするときに接ぎ木をして根の強いアラビカ種をつくり出しているという。グアテマラコーヒーは勿論アラビカ種が主流、だから高品質だというわけだ。(コーヒー博物館)




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次の部屋では分かり易いパネルを使って生豆から焙煎されたコーヒーへ姿を変えていく過程を説明していた。当然ながら段階を経るたびに量は減っていき最終の実収率は低くなる。(コーヒー博物館)



 [ コーヒーの実からコーヒーができるまで ]

ところでコーヒーの実は熟してくると緑色から赤い色に変わってくる。ちょうど北国のナナカマドに似ている。
コーヒー豆になるのは種子の部分(正確には胚乳と胚芽を合わせた部分)で、それを取り出すためには覆っている果肉と内果皮を剥かなければならない

人の手で収穫されたコーヒーの実は工場に運ばれ、まず機械で果肉が取り除かれる。続いて内果皮を取り除き易くするため発酵槽と呼ばれる水槽に1~2日漬けられた後入念に乾燥(天日乾燥なら1~2週間、機械の場合は1日)され、さらに脱穀機に似た装置で内果皮が取り除かれてコーヒー豆(生豆:ナママメ)になる。

その後機械で
サイジングされ、豆の色を基準にしたおばちゃんたちの手選を経て最終的に品質等級別の生豆が出来上がる・・・というのが精製の大まかな流れだ。

生豆は英語でGreen Coffee、西語でCafé Oroと呼ばれ、焙煎する前のこの状態で輸出されるのが普通。
高品質の豆は殆どがアメリカや日本など世界の消費地に輸出されてしまいこの国ではまずお目にかかることはないという。

コーヒー豆の流通は、世界の4大流通業者が占めていて生産者の立場は歴史的に極めて弱く収益の取り分も小さいという。これは、国際農産物を巡る先進国(消費国)と新興国(生産国)との間の深刻な経済格差問題(南北問題)の一つと言われているがその解消は遅々として進んでいない。

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農園内の移動はこのキャノピーで。(フィラデルフィア農園で)



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コーヒー育苗場。(フィラデルフィア農園で)




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一部が赤く熟してきたコーヒーの実。摘み取りは近隣の人たちが雇われているのか、外部からの季節労働者なのかはっきりしないが、
完熟した実をひと粒ひと粒手摘みし、幾段階もの精製過程を経てわれわれが口にするコーヒーになるわけだ。この手間のかかり方を知ると味わいも一味違ってくる(?)。(フィラデルフィア農園で)



images[1].jpg日本の北国で見かけるナナカマドの実、見かけはコーヒーの実にそっくり。




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付きっきりで親切に案内してくれたフィラデルフィア農園のガイドさん。名前を失念してしまったが大学では獣医学を勉強したと言っていた。彼の説明を聞き取ろうと必死に集中するが頭が疲れてヘトヘトに。




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コーヒーの実を摘んでいたオジさんたちと立ち話。(フィラデルフィア農園で)



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コーヒー実の摘み取り作業。コーヒーの木自体は2m程度だが日の直射を嫌うために日陰を作る高木(確かユーカリといっていた)が配置されている。(フィラデルフィア農園で)



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園内風景とコーヒー摘みの作業員、女性もいるようだ。(フィラデルフィア農園で)



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精製の手順をパネルを使って説明。(コーヒー博物館で)




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発酵槽を経て洗浄された内果皮付きコーヒー豆が樋を水流で運ばれてくる。この後は乾燥工程。(フィラデルフィア農園で)


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まだ内果皮が取れていないコーヒー豆。(フィラデルフィア農園で)




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天日干し中のコーヒー豆について説明。(ラ アソテアの乾燥場で)



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膨大なコーヒー豆が畝状に並べられている。これを日に何度か人力で撹拌するとなると結構大変な作業だろう。基本的に乾季の作業とは思うが不意の降雨が来たらどうしているのだろうか。聞き漏らしてしまった。(ラ アソテアで)




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フィラデルフィア農園の乾燥場。



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製品倉庫に展示されていたコーヒーの麻袋。CREEN COFFEEとあるが多分生豆の意だろう。その上にYOKOHAMAの文字が見える。横浜港に行くのだろうか?一袋の重量は150LBS(ポンド)で70kg弱。(フィラデルフィア農園で)





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片隅にあった出荷前の最終製品。(フィラデルフィア農園で)





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一部は焙煎して売店でお土産用に小売されている。(フィラデルフィア農園で)



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テイスティングルーム兼コーヒーショップ。(フィラデルフィア農園で)



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最後にテイスティングルームの片隅で当園産コーヒーのサービスがあった。
香り、酸と苦みのバランスはさすがだったが、焙煎が浅い感じの所謂アメリカンコーヒーですっきりしているものの、当方にはやや物足りなかった。まあこの辺りは人の好み次第だから致し方ないところ。グラスの水はテイスティングのときの口すすぎ用だそうだ。


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コーヒーショップそばの芝生の庭。ここではホテルやレストランなども備えていてアグリツーリズムに力を入れている。

 (以下、「8.アンティグア生活つれづれ②」に続く)

 


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6.マヤ族の里③(サンティアゴへ) [グアテマラ アンティグア]

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パナハッチェルの桟橋、ここから対岸のサンチャゴ アティトラン村に向う。湖に面して幾つかあるマヤ族の村の中では一番大きいという、画面のほぼ中央、火山と火山に挟まれたあたりにその村はある。


  [船でサンティアゴ村へ]

一夜明けて天気は前日よりさらに好転、
穏やかな観光日和となった。
ホテルの朝食は蒸かした薄いトルティージャ(主食)にフリホーレス(インゲン豆料理)やスクランブルエッグなどが付いたグアテマラ定番のものだったが、食事もそこそこに早めに湖岸の渡船場に向かった。

というのは昨日の情報では8時半にサンティアゴ行きの便があると聞いていたからだ。しかし桟橋には時刻表などはなくどうもはっきりしない。客が集まれば出るといった雰囲気だ。
誰が船の関係者なのかもよく分からなかったが、桟橋の近くでそれと思しきオジさんに「この船はサンティアゴに行くのか?」と聞くと「そうだ、とにかく乗って!」という。その場で30ケツアル(400円ほど)を払い乗り込む。

後で気づいたのだが、桟橋のそばでオジさんが、「サンティアゴ、サンティアゴ行きだよ!」と大声を張り上げていた。朝は余裕がなくてそれが耳に入らなかったのだろう。

船は屋根付き大型のプラスチック製ボートで15人前後は乗れるだろうか。
周りを見渡すと旅行者らしき乗客もいるが地元民もちらほらいて船首には生活物資の積荷も見える。本来は湖岸に住む地元民の足代わりらしく時間帯によっては商用や通勤通学の乗客も利用しているのかも知れない。

そこそこの乗客数に達したのかすぐ出航となった。時計を見るとまだ8時半少し前だ。
桟橋を離れるとすぐにエンジン全開、スピードを上げて一直線に対岸のサンチャゴの村(Santiago Atitlán)へ向かった。真っ青な快晴の下、紺碧の湖面に優美な火山群が映える素晴らしい景色が拡がった。

正面左手前にトリマン火山(Volcán Toliman 3,158m)、その後ろに重なるようにしてアティトラン火山(Volcán Atitlán 3,537m)の頭が見え、右にはサン・ペドロ火山(3,020m)の美しい円錐形が控えまさしく絶景だ。

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ホテルの朝食。主食の蒸かしたトルティージャ(Tortilla)やフリホーレス(Frijoles、煮たインゲン豆をペースト状にしたもの、甘くはない)はグアテマラやメキシコの朝食には絶対に欠かせない。

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出発直前の船内、船尾には何やら生活物資が積まれている。



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出航するとすぐに眼前にカルデラの外輪山が拡がる。正面はサン・ペドロ火山(標高3,020m)



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手前にトリマン火山(3,150m)、その後ろのアティトラン火山(3,537m)が重なって見える。



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船が進むに連れて山の見え方が変わるのは面白い。この辺りでは三つに見えるが手前はトリマン火山の前峰のようだ。




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対岸が近づいてきた。そろそろ到着。




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30分ほどでサンチャゴの船着場に到着。



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船を下りて出発してきたパナハッチェル方面を振り返える。サンチャゴ村は湖の南側、入り江の奥まったところにある。



 [ サンチャゴの市場 ]

およそ20kmの船旅、思っていたほど時間はかからず30分足らずでサンティアゴの桟橋に着いた。
先住民の村というがそこそこの大きさで、街は左右の火山に挟まれるようにして湖岸から奥に拡がっている。

下船して早速散策開始、桟橋近くに集まっているお土産屋街を抜けると緩い上り坂が続いている。
メインストリートのようだが、もっとマヤ族の街らしい家並みを勝手に想像していたのだがそれは多分昔のこと、今は舗装道路とコンクリートや石造りの建物が続いているだけのこと、何の変哲もない。

見所がないかとさらに進むと左折する道に大勢の地元民が集まっているのが見えた。
一見カトリック教会の行事か何かに見えたが、よくよく見ると道路に屋台が並ぶ露天市場のようだ。店は細い道沿いに奥の方まで続いている。
早速行ってみることにした。

そう言えば今日は金曜日、週2回の大きな市がたつ日に当たっているのだろう、かなりの人出だ。店の人は勿論、歩いている客も殆どが地元のマヤの人達ばかりで外国人の旅行者などはちょっと場違いの感じもする。

しばらく進むと左手に学校、さらに奥に教会があり、市は学校の周辺の道路、小広場一帯にびっしりつながっていた。例によって生活雑貨、衣料品の店が多いがここの市では野菜・果物の露天が沢山目に付く。


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船着場からメイン道路を上ってきて振り向くとこんな景色。普通の田舎町の風景だ。



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右手は学校、その前の広場、周辺の道路は露天がいっぱい、手前はアボガドを野積みして売っていた。



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別の野菜・果物店、種類も豊富で食生活は安定しているようだ。



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路上に並べるだけの店も多いが品物は意外にキチンとしている。





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奥まったところに、フランシスコ系と言われるあまり装飾のない白い教会があった。




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近くに寄るとそれなりに大きく、この村の規模からすると立派なものだ。アティトラン湖周辺のマヤの世界ではキリスト教とはるか昔から続く土着宗教が融合してマシモンまたはサン・シモンという像を祀る民間信仰が盛んでサンティアゴ村はその中心地の一つとして有名。



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午前中の市場で目立つのはやはり地元のマヤ系女性たちだ。



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若い主婦(?)らしき女性たちの後姿。縦じまのウイピル(Huipil:女性用ブラウスで頭からかぶる)と落ち着いた色の細い縦じまのコルテ(Corte:腰布、スカート)を着用している。女性がお洒落に気を使っているのはどこも一緒のようだ


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後姿その2、凝った刺繍の幅広の帯(状の織物、ファハ:Faja)を腰や首に巻いたりしている。



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彼ら独特の極彩色の織布が並べられている店先。これらの織布をどう使われているのだろうか、タペストリー? ショール? 首巻? ベルト? 店内には日本人にも合いそうなやや地味なものもあるにはある。
以前は天然染料を使った綿糸の手織りで味わい深かったようだが、今は化学染料によるアクリルやレーヨン糸を機械織りしたものが殆どで安価だが深味という点では劣るようだ。





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店で相手をしてくれた女性。


 
 

  [ 帰途 ]

市(イチ)は本来の商店街とその前の道路やちょっとした広場を占拠するように並ぶ露天の店からなっている。
従ってこれらの店を見て歩く通路はすれ違うのが難しいほど狭い。そんな狭さのせいもあるのだろうがどこも年末のアメ横状態で活気を感じる。
平日の午前中だからか市に来ているのはマヤ族系の女性が殆どで、外国人の観光客などはついぞ見かけない。
とにかく市をのぞけたことで彼等の生活ぶりを身近に感じることができ、ここまで来た甲斐があったというものだ。

前日にチチカステナンゴで見たのと同じ色彩の洪水にここでも圧倒されたが、活気に満ちた市場や店に並ぶ物資の豊富さなどを見ているとそれはそれで存外豊かそうに見える。確かに我々が当然と思っている都会の生活とはかけ離れているところもあるが、彼らの価値観では十分満足できる暮らしが出来ているということなのだろう。

市場を出てから朝来た時と違うルートでブラブラ下り船着場まで戻ってきたがまだ11時前。
そうこうしているとパナハッチェルからのボートが到着した。すぐ折り返し便になるらしく船頭たちが盛んに客を呼び込んでいる。
今度は余裕をもって乗船、ボートが湖の中央に出ると風が結構強く湖面は波立っていたが無事パナハッチェルに戻ることができた。

街中で昼食を済ませた後、予約していた帰りのシャトルバスにピックアップしてもらいアンティグアに向かった。
バスは順調で16時前にはアンティグアのセントロに近い例の旅行社前に到着、こうしてマヤ族の里を巡る今回の一泊二日の旅は無事に終わった。


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市場を出て船着場に戻る途中で出会った欧米人観光客のグループ。



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船着場に戻ってきた。バックはサン・ペドロ火山。



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ちょうどパナハッチェルからのボートが着いて乗客が上陸してくる。右手前は客集めの船頭(?)

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帰りの船中。サンチャゴを出て途中立ち寄った船着場、町から外れて岸辺の一軒家(別荘?)に住む住人をピックアップ(?)するらしい。


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サンティアゴを出てしばらくは右手湖岸いにポツンポツンと別荘風の住居が見える。よくこんな所に住んでいるものだ。



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さらに別荘風の住居が続く。



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湖の中央まで出てくると湖面はやや波立っていた。



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ボートの窓にはガラスはなくしぶきが飛んでくる。



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パナハッチェル近くまできて振り返ると、トリマン火山、アティトラン火山の頂上には少し雲が出ていた。



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戻った船着場そばの湖岸道路、多少の店が並んでいるがのんびりしたもの。


  
(以下、「7.アンティグア生活つれづれ」に続く)


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5.マヤ族の里②(アティトラン湖) [グアテマラ アンティグア]

 
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アティトラン湖の俯瞰図。左下手前にパナハッチェルの町、対岸にサンチャゴ アティトラン、湖岸沿いには数多くのマヤ族集落がある。


 [湖畔の町、パナハッチェルへ]

同乗してきた人たちも駐車場に戻っていてシャトルバスは予定どおり14時半にチチカステナンゴを出発、アティトラン湖畔にあるパナハッチェル(Panajachel)の町に向かった。
当初しばらくは高原状の景色の中を走っていたが右側遠目に湖が見え出すと次第にジグザグの急坂を下り始めた。水面レベルまで下りきってほどなくパナハッチェルのバス停に到着した。所要時間1時間ちょっとか。

この湖は標高1,500mあたりにあり、面積が十和田湖の2倍、水深も320mもあって典型的なカルデラ湖の形状だが、まさしくそのカルデラ内側の急斜面を下ってきたということだ。
チチから標高差500mを下りたことになり何となく体で感じていた感覚とも合う。


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チチの駐車場。グアテマラシティあたりから観光客を乗せてきたシャトルバス(大型のバン)が数多く待機中。三々五々乗客が戻ってきているようだ。



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カルデラ内側の急斜面を下っていると天気が次第に回復し、サン・ペドロ火山をバックにしたアティトラン湖の眺望が拡がった。


標高差のせいなのか、丁度天気の変わり目だったのか分からないが、パナハッチェルに着いた頃には青空が広がり出し気温も上がってきて劇的に天気は良くなっていた。チチのあの霧雨と冷え込みは一体何だったのだろう、大違いの天気だ。

バスを降り歩いて予約のホテルに向かう。町は人口2万弱、緑も多く落ち着いていて鄙びた避暑地といった風情だ。ただし閑散としていてシーズンオフのリゾートを思わせる。

それにしても "パナハッチェル" という町の名前はこれまた何か独特の響きがある。この辺りはチチカステナンゴとは違うカクチケル族という人達の勢力圏だったそうで、彼らの言葉でサポテという果物の木がある場所という意味とのこと。

日本ではそもそもアティトラン湖自体も、この辺りに点在するマヤ族の村落など殆ど知られていないだろうが、普通の観光(地)では飽き足らなくなっている向きには格好の穴場かも知れない。

旅行社が取ってくれていた宿は中央にパティオがある静かなB/B風のホテルであの値段なら十分納得だ。
暗くなる前に明日訪ねようと思っている湖周辺の村を巡る船便などの情報を入手すべく街に出かけた。

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アティトラン湖北岸に面したパナハッチェルの町。ひっそりと落ち着いた町。ホテル・レストランも整っており湖周辺観光の拠点になっている。


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泊まったホテルの玄関先。ブーゲンビリアが美しい。




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中に入ると緑が美しいパティオに沿って回廊があり部屋が並んでいる。突き当りは食堂。




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一泊したホテルの部屋。タイル床にベッド、小ダンス、TVにシャワー・トイレが付いただけだが特に不満はない。


最初に寄ったのはこの町の観光案内所。こんな町でも(失礼!)小ぎれいな事務所を開き、きちんと担当者を置いているのをみるとやはり観光に力を入れているのがよく分かる。

明日は昼過ぎのシャトルバスでアンティグアに戻ることにしているので歩き回る時間は正味午前中しかない。
ガイドブックによれば、キノコのような形をした湖の周辺にはマヤの人達の村々がいくつもあり、それぞれに部族特有の色合い、模様、刺繍が織り込まれた織物、衣料、アクセサリーなどの工芸・民芸品が有名だという。   湖を取り巻くように陸路もあるようだが、岸の村へは陸路よりもパナハッチェルから出ている船(ボート)で行くのが便利で確実らしい。

どこの村に行って何を観るか、観光案内所の情報では湖岸最大の先住民の村、サンティアゴ・アティトラン(Santiago Atitlán・・・以下サンティアゴ) の村がお薦めらしい。
この村はパナハッチェルのちょうど対岸にあり最も遠いのだが、往復便も多く動きやすそうだ



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立ち寄った観光案内所。男性係員がいてキチンと対応してくれた。



 
[湖畔を散策]

大方の見当が付いたので湖岸沿いの散歩道に出てホテルに戻ることにした。
空は完全に晴れ上がり紺碧の水面、湖岸の緑、遠景に紫色に霞む外輪山、その外輪山も例によって見事な円錐形の火山が並んでいる。
そろそろ落日を迎えようとしている時間帯で、これが ”世界でもっとも美しい” と言っている景色だろうか。

ブラブラ歩いていると湖面を見渡しながら食事ができるオープンレストランがあったのでそこで軽く夕食をすませることにした。
湖で獲れるという魚のフライにサラダが付いたものとパンにビールを頼んでみた。聞いてみると魚は
ブラックバスだという。初めて食べる魚だったが味は淡白で白身、あまりにも淡白すぎて期待した脂の旨みは感じられなかった。

食事が終わるころ、いよいよ落日になった。
パナハッチェルから見て、対岸のサンティアゴの右手にあるサン・ペドロ火山(3,020m)のさらに右側に夕日は没していった。
しばらくの間うっとりと見とれてしまったが、これが ”世界で最も美しい湖” の由縁になっている景色の一つに違いない。


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対岸に見えるはずのトリマン火山(Volcán Toliman 3,158m)、アティトラン火山(Volcán Atitlán 3,537m)
が残念ながら雲に隠れたアティトラン湖。



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長閑な湖岸は一幅の絵のような景色でほっとさせてくれる。



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湖岸の散策路沿いにあったオープンレストラン。



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頼んだサラダ添えのブラックバスのフライ。




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落日間近のアティトラン湖。翌日乗ったボートは手前右の屋根付きボートと同型。



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夕日はサン・ペドロ火山の右手に没していった。


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落日の瞬間。



   (以下「6.マヤ族の里③(サンティアゴ)」に続く)


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4.グアテマラ、マヤ族の里①(チチカステナンゴ) [グアテマラ アンティグア]


 [ 小旅行を計画 ]

”世界で最も美しい湖” という振れ込みで日本のガイドブックに出てくるアティトラン湖(Lago de Atitlán)は、日本を出る前から少し気になっていた。本当にそんなに美しいのか。
と言っても今の時代だから画像検索をかければすぐに映像が出てくる。成程、それなりには美しい。
火山国日本では北海道、東北でよく見かけるカルデラ湖風の景色で関東で言えば男体山をバックにした中禅寺湖といったところだ。


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霞んでいるがアティトラン湖の遠景。チチカステナンゴの町から湖畔の町、パナハッチェルに向かって外輪山を下っている時に車内から撮影。


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男体山をバックにした中禅寺湖。上のアティトラン湖によく似ている。



幸いこの湖はアンティグアの町からそんなに遠くないし、美しさのほどはやっぱり現地を観てからにしよう。それに湖の畔にはマヤ族の村が点在し彼らの素朴な生活ぶりを垣間見れるというのも興味深い。

アンティグアに着いた次の日、学校の手続き、ホームステイ先の選定などを済ませてから街中の旅行社に寄ってみた。観光の町アンティグアというだけあって旅行社と称する店(個人経営規模が殆ど)はあっちこっちに見かける。

アティトラン湖へ行くツアーを探して入ったのはセントロに近い変哲もない旅行代理店、後でガイド本を見ると市街図にも載っていたからそれなりなのだろう。相手してくれたのは見かけ無骨そうな中年の男だったが話してみると意外に親切。ほっとしてたどたどしいスペイン語ながらアンティグアを起点にしたツアーのことを聞いてみた。

彼によると、アティトラン湖へは日帰りで行けるが、途中でチチカステナンゴ(Chichicastenango、現地ではチチと略して呼ばれる)というマヤ先住民の村に寄ってから湖に向かう1泊2日の旅が普通でお薦めだという。

ガイドブックによると、チチは人口1万人に近く、村というより小さな町だが、毎週木曜と日曜に大規模な露天市が立ち周辺の村々から数万人の先住民が集まり、食料品や日用雑貨などが売買されとても賑わうという。最近はこの露天市を目当てに外国人観光客も結構多いのだそうだ。

早速2日後の木曜日に出かけることにして足と宿を手配してもらった。支払った費用は往復のシャトルバス代とホテル代で60ドルほど。このほか、アンティグア周辺にあるコーヒー農園を見学する半日ツアーも別の日で手配した



  [ チチへ ]

予約した日はそこそこの好天、早朝だったが約束の時間にシャトルバス(12~3人は乗れる大型のバン)が迎えに来てくれた。その足で別の予約客もピックアップし、総勢7~8人になってアンティグアの町を出発した。

チチまでは北西へ直線距離で60kmほどだが、実際は100kmはあるだろうか。道路は片側2車線部分も多く思ったほど悪くはなかったが、平坦な部分は殆どなく山あり谷ありの険しい道が続く。
橋を架ければスーっと渡れる渓谷でもこの国ではそんなインフラ投資をする余裕はないから車は九十九折の急坂を谷底まで下り川を渡ってからまた這い上がってくるという繰り返しで時間がかかるのはしょうがない。


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チチカステナンゴに向かう道路事情はそんなに悪くない。



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片側2車線部分も多い。


それでもバスは何度か峠を越えて最後の坂道を下るとチチの町に入った。時計を見ると10時少し前、所要時間は2時間半弱。チチの標高は2,030mもあり、アンティグアからは500m登ったことになる。
標高のせいもあってか生憎の霧雨模様で肌寒く、アンティグアとは大分違う。

車は中心部から少し離れた駐車場になっている建物に入って止まった。運転手が「今から自由時間です、14時半にパナハッチェルに向けて出発するのでそれまでに戻って来るように」という。
建物の中には同じようなマイクロバスが沢山駐車していたから他にも観光客が訪れているようだ。
まだ10時、まずは人どおりの多そうな方向に向かって歩いてみる。
霧雨が煙るような天気にも係わらず木曜日は露天市の日、雑然とした街中は地元の人たちで賑わっていた。


 [チチの露点市をブラブラ]

マヤ族というのは中央アメリカの先住民のことだが、マヤという一つの民族が存在するわけではなく、文化と言語の一部を共有する異なる多くの部族、集団、社会を総称しているという。
今世紀初頭の数字では中米に居住しているマヤの人は約700万人と推定されている。

ところで、この町、チチカステナンゴ(Chichicaste-nango)は、キチェ(Quiché)県の高原地帯の小さな町。そう言えば、この国の高原地帯には尻がナンゴ(nango)で終わる名前の町が多い。

我々日本人には馴染のないちょっと妙で滑稽な響きに聞こえるが、ケツァルテナンゴ(Quetzaltenango)、ウエウエテナンゴ(Huehuetenango)、アンティグア近くのホコテナンゴ(Jocotenango)など、この地域にはまだまだ面白い名前がある。

"nango" とはどんな意味なのか、調べてみるとマヤの言葉で"~の土地" という意味らしく、チチカステナンゴは、"チチカステ(植物のイラクサ)の土地"ということになるらしい。

ところで、通りで見かける人達はどちらかと言えば小柄。赤、ピンク、紫、藍といったキチェ族特有の色使いの民族衣装を身に着けた人が多い。若者はやっぱり現代風の安易なスタイルが一般的だが、年配の女性になるとウィピル(Huipil)と呼ばれるブラウスとコルテ(Corte)というスカート様の腰布との組み合わせがまだ多い。
原色の洪水のような民族衣装には独特の文様が織り込まれていてそれを見るとどこの村の出身者か彼らの間では識別できるという。


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バスの駐車場を出て露天市があるだろう方向に向かう。民族衣装のキチェ族の女性も見える。



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こちらにも年配小柄なキチェ族女性が。



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露天市が始まる辺り。右側に靴屋が見える。



露天市はサント・トマス教会を中心に拡がっていて教会への参道沿いに続いているようだ。
この教会はカトリックの教会で1540年にスペイン人によって建てられたとされているが、礎石は古代マヤのキチェ族の建物だったもので、今でも先住民独自の神々を信仰する場にもなっているとのことだ。
キリスト教を通じて入った西洋文化とマヤの土着文化とが融合して独特の雰囲気が漂っている。

小雨模様で露天市はどの店もシートで覆われていたが、靴、バッグ、帽子、衣料など生活雑貨の店が圧倒的でお参り用の生花や蝋燭などや魔除けのお面を並べている店もあった。


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地元の人たちの中に観光客もチラホラ混じっているようだ。




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昼食で入った二階のレストランから露天市を見下ろす。



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露天市は雨でシートが懸けられている。




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右側に帽子屋。



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サント・トーマス教会の礼拝堂前の階段は一休みする参拝者と物売りとでごった返していた。



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階段ではお参りに使うのか生花も売っている。


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雨に燻ぶる露天市。遠方にサント・トーマス教会が見える。



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日本のお寺などで見かける護摩焚きの煙ではないが、ここでも独特の香りがする何か(の花?)を焚いていて辺りはすごく煙い。


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教会そばに魔除けなのだろうか、骸骨や悪魔(?)のお面を並べた店があった。



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キチェ族の絵画や壁掛けを売っている店。左下に佇む二人のマヤ女性の格好が定型的な民族衣装だろう。


悪天のせいでチチの良いところをすべては観ていないのかも知れないが、マヤの人たちの世界をちょっぴり覗いてみることはできた。
とにかく街中に溢れる藍、紫、ピンク、赤の色彩に圧倒されたというのが真っ先に出てくるこの町の印象だ。
観光客用らしきレストランで昼食を済ませ、ちょっぴり考古学博物館を覗いてから少し早かったが朝の駐車場に戻った。

バスは予定どおり、アティトラン湖沿いの町、パナハッチェルに向かって出発した。


 (以下「5.マヤ族の里②(アティトラン湖)」に続く)


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3.アンティグアの街 ② [グアテマラ アンティグア]

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中米全図。通常、「中米」といえばメキシコを含まず、グアテマラ、ベリーズ(昔の英領ホンジュラス、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、パナマの7ヵ国を指すが、マヤ文明の勢力圏だったメキシコ南部からパナマ西半分までを言う場合もあるようだ。



 [ グアテマラの基本情報]


ここで”グアテマラ”という国の基本情報をもう少し。

改めて、どこにあるかは上の地図を見て頂きたい、すでに触れたとおり太平洋だけでなく大西洋(カリブ海)側にも出口がある。

国土面積は日本の1/3程度(北海道に四国を加えたぐらい)、人口は中米で最も多い約1,500万。そのうち4割がマヤ族系の先住民族(インディヘナ)、残り6割は先住民とヨーロッパ系の混血(メスティソ)が大半という人種構成で、中南米では先住民の比率がボリビアに次いで高い。

彼らは紀元前から長い歴史を持つマヤ文明の末裔なのだが、長年に亘り山間部で自然と共生する生活スタイルを基本としていて最近まで貨幣経済や都市生活とは一線を画してきた。このため彼らに現代の生活様式、特に教育機会が行きわたりづらく、貧困から抜け出せない一因になっているという話を聞いた。勿論、1960年から96年まで続いた内戦や繰り返す自然災害などの影響もあるだろう。

統計にもよるが当国の一人当たりGDPは約3,500ドル。(因みにインドネシアと同レベル、日本は3.8万ドル強、IMF統計2013年、)
総じて中低所得国の範疇だが、おそらく先住民系の多くは1,000ドルにも達しない生活をしているはずで、逆に言えばアンティグアなどの町に住む都市住民は数字よりは高いレベルにあり貧富の格差が大きな問題になっている。

ところで、この国は隣国ベリーズやユカタン半島につながる北東部を除くと大半が起伏のある山地で、人口の多くは標高の高い山合いに集まっている。

海岸部は緯度からして熱帯性気候で暑いが、中央山地は標高のせいで温暖で住みやすいと言われている。アンティグア(標高1,500m)がその代表例だが、首都のグアテマラシティ(人口250万強、標高1,500m)も、第二の町ケツァルテナンゴ(同 約20万、2,300m)も高地にあるのは気候が良いからだろう。

滞在した2月のアンティグアは乾季(
114月)の後半で毎日好天が続き湿気もなく快適だった。その間一度も雨らしい雨には遭わなかったから、気候だけならこの時期前後に訪れるのがオススメだ。その後5月になると雨期に入り、7月頃に中休みがあるものの、しばらく雨が多い日が続くらしい。

要注意は一日の寒暖差が激しいこと、日差しの強い昼間は半袖で問題ないのだが、いったん日が落ちるとセーターなど厚手の服が恋しくなり明け方などはあまりの冷え込みでよく目が覚めることがあった。体調を落としていたせいもあったかも知れないが。



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通学時に通るサンフランシスコ教会の南西角付近。塀にブーゲンビリア(buganvilla)が見える。この花は熱帯地方で生垣などとして栽培されることが多くこの町では
珍しくない。天候の温暖さを示す例だろう。




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中央公園にはハカランダ(jacarandá)の木もあった。熱帯アメリカ特有の樹木で南米の都市では並木や庭園樹としてよく見られる。これも気候が温暖ということだろう。



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下宿近くの小公園にもハカランダの高木があった。見にくいが紫色の花が付いている。





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下宿の中庭では屋上に上がる階段沿いにブーゲンビリアが咲いていた。






 [ 街のランドマークは中央公園 ]


アンティグアの町は「コロニアル(植民地風)様式の建物、多数のひなびた教会群、そして石で敷き詰められた街路など、こじんまりと美しい佇まいの町である
・・・」と旅行書などで紹介されている。

さらに付け加えると、地震に悩まされてきた歴史のせいか、世界遺産になっている古都の街並みを保全するためか、(恐らくその両方?)市街には背の高い建物はなくせいぜい2
階建てどまりだ。多分、現代風のビルなどは景観にそぐわないとして建築を許可していないのかも知れない。

町の中心は中央公園(Parque Central だ。16世紀、中米の首都としてこの町に総督府が置かれて以来500年近い歴史を持つ公園だ。その旧総督府があった建物(今は使われていないようだ)が南に面しており、北に現役の市庁舎、東にカテドラル、西面だけは商店・銀行などが囲んでいる。

こんな古い公園だが今でも市民の憩いの場所として、家族づれ、カップル、お年寄りに観光客も加わっていつも人出は絶えることがない。
週末に行ってみるといろいろな催しに出会って楽しい。軍楽隊(?)の演奏やら先住民の人達による民族舞踊、マリンバ演奏、パラグアイから来た(?)というアルパ(インディアンハープ)の
グループ演奏などを見かけた。




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中央公園の真ん中には噴水がある。ここの人たちは噴水が好きなようだ。




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ある日の午後旧総督府前の回廊で軍隊か警察(?)の楽隊がマーチを練習していた。





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一人ひとりはまだ中学生か高校生ぐらいにしか見えなかったが …




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別の日には同じ旧総督府の前でマヤ系先住民による集団舞踊を見た。




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マヤ族のお祭りか何か儀式のためか、カラフルな衣装にお面も付けて踊っている。




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踊りを観ていたら見物人の前を冷凍ボックスを引いたアイスクリーム屋のおじさんが横切った。
後姿の黒髪の現地女性も携帯(?)スマホ(?)で写真を撮っていた




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こちらは市役所前。旧総督府の建物と酷似だが両者は公園を挟んで向かい合っている。ここでもその回廊でマリンバの演奏が行われていた。




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マリンバの音色は南国のけだるいような午後の時間にピッタリ。




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こちらはある日曜日、公園で演奏していたアルパ(インディアンハープ)を中心としたグループ。
演奏前の紹介でパラグアイから来た(?)と言っていたように聞こえたが・・・





この町を歩き回るのは簡単、端から端まで歩いても30分もあれば行き着いてしまうほどの大きさだし、中央公園を起点に下の地図の如く、街路が碁盤目状に拡がっているので方角さえ意識していれば迷うことはない。スペインが植民した中南米の町の旧市街は、こんな創り方が結構多い。

とは言え昼間は問題ないのだが夜になると街路や住宅に特徴がないせいか特に住宅街では判別しづらくなる。
その上街灯も少ないので自分が今どこにいるのか常に意識しておく必要がある。

住み始めた頃、暗くなってから下宿に戻ったとき、ずっと続く壁のどこに入り口のドアがあるのか真っ暗で見分けられず焦ったことがある。ようやく分かったドアの前で今度は鍵穴がよく見えず(眼が悪いせいもあるが)往生した。幸い小さなLEDライトを持っていたことを思い出し何とか事なきを得た。



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アンティグアの市街図(学校からもらったもの)。正確な地図ではないが、街路が碁盤目状になっているのがよく判る。一区画は概ね100mだから市街は東西南北およそ1.5kmの範囲に収まってしまう。
灰色で塗りつぶされた区画が中央公園でこの町のセンターだ。



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12時で授業を終え下宿先に戻ってきた。玄関は右から三つ目の黄色い壁にあるドアで自分の鍵で入る。昼間はどのドアか識別しやすいのだが夜になると壁の色も見えずどれだか見分けづらい。
ちょうど近くの学校も12時で終り子供たちが下校中だったところに出会った。皆、こぎれいな格好をしている、中流家庭以上の子女だろう。

 

 [石畳の街路とカラフルな街並み]


ところで、これだけ徹底して町中の道路が石畳で埋め尽くされている街はそうはないだろう。
写真でご覧のとおり車道は不定形の10cm程度の黒っぽい石で全面敷き詰められているのだが、ヨーロッパの街の石畳のように路面が平らではなく、その凸凹さ加減は半端ではない。

一度穴ぼこを補修しているそばを通りかかったことがあるが、石工が石の形をハンマーで整え下地の土の上に無造作に並べているだけに見えた。
下地の地盤を十分
締め固めずに石を敷いているのなら車の重みで不等沈下してしまうのも無理はない。

一方、歩行者にとっては車がスピードを出せずせいぜい20~30km/hだから究極の安全対策になっていて悪くない。仮に
、車がスピードを出し過ぎればきっとサスペンションを痛めること必定だ。

スピードを追い求める今の時代にこの状況で問題にならないのは町が小さいからだろうが、世界遺産の古い街並みを売りにしているこの町にはむしろこのままが馴染むとも思う。

しかし、歩行者は狭い歩道も油断できない。一応コンクリート舗装しているが、幅が1m足らずで車道との段差が大きいので歩きずらいこと甚だしい。しかも1丁ごとにガタガタの車道を横切らざるを得ないからハイヒールはまずムリというもの。(と思っていたら偶にハイヒール姿を見かけこともあった。女性の執念・気迫は恐るべしだ!!)



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石を敷いただけの車道。左下は歩道だが段差が結構ある。



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偶然見かけた道路の補修工事。左にマンホールの蓋が見えるということは上・下水道管が埋まっている証拠?

これまでの写真でご覧のとおり、この町の住宅は一般的に平屋建てで、道路に面しては小さ目のドアの入り口と鉄格子の付いた出窓があるぐらいでほとんどがパステルカラーの壁面で囲まれている。まあ中に入るとゆったりした中庭(パティオ)と緑があり余裕のある造りになっている。

家の内部を不用意に晒さないという防犯上の意識からこんな構造にしているのだろうが、例外なく壁面は白や青、黄土やオレンジ、茶色(ワインレッド)などでカラフルに塗られているのが面白い。
特に色の選択に規則性があるわけでもなさそうだが、淡いパステルカラーで塗られた壁が続く街並みはなかなかの趣向だ。

”街の色”で想い出すのは、色調が全く違うがスペイン アンダルシアの白い村だ。
地中海に面した山肌に真っ白い家々が立ち並ぶミハスやフリヒリアナの村々は青い空に映えて本当に美しかった。




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鮮やかなワインレッドが印象的な住宅街の壁。




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こちらは黄土色の壁が続く。



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外からは壁面ばかりだが、中には緑もパティオもあるゆったりした平屋の住居があるのが普通だ。



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ミハス(Mijas)の闘牛場あたりから撮った白い村の一角。やはり綺麗。



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ミハスで最も有名な撮影スポット、サン セバスチャンの白い坂。


   (以下、「4.マヤ族の里①(チチカステナンゴ)」に続く)



 


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2.グアテマラ、アンティグアの街 ① [グアテマラ アンティグア]

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朝のアグア火山。(下宿先の屋上から)

 [アンティグアは火山の町]

この町を特徴づけるもの、それは何といってもアグア火山(Volcán de Agua)だろう。

富士山そっくりの長いすそ野を持つ穏やかで美しい姿は市街のどこからでも望むことができる。この町のシンボルと言っていい。

メキシコからパナマにつながる中米の国々は環太平洋造山帯の中央アメリカ火山弧に位置する。このためメキシコ中部からグアテマラ、エルサルバドル、ニカラグア、コスタリカ、パナマにかけて点々と火山が連なる地帯で地震も多く日本周辺の地殻構造と良く似ているという。

その中でもメキシコの南に接するグアテマラは最も火山の多い国で、富士山と同じコニーデ型(成層型)の美形の火山が多く、アグア火山もそのうちの一つだ。

標高が3766mというから殆ど富士山と同じ高さで、町からわずか10kmしか離れていない。それならもっと高く聳えて見えてもと思うがそれほど威圧感を感じないのはアンティグアの町自体がすでに1,500mの標高があるからだろうか。それに雪化粧していないせいもあるかも知れない。

しかし、もしこの山の標高が4,500m前後あったら北緯15度の当地でも雪を被った富士山になっていたはずなのだが・・・、その意味ではちょっぴり残念ではある。

この町の近傍にはさらに近年大噴火(直近は2012年5月)を繰り返し現在も噴煙を上げているフエゴ火山(Volcán de Fuego 3763m)とか、パカヤ火山(Volcán de Pacaya 2550m)など幾つかの火山がある。なお、アグア火山も含めこれらの山はガイド付きなら観光登山が可能なようだ。


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街の中心部から北東方向に20
分も歩けば山のふもとにぶつかる。ここから木立ちの中の散策路を上ること20分ほどで「十字架の丘」(Cerro de la Cruz)と呼ばれる展望台に辿り着く。写真はこの丘から望むアンティグアの街並みと背後に聳えるアグア火山(町から約10km南)だ。写真を撮る直前まで頂部には雲がなかったのだが・・・、 午前中の早い時間は雲がなくても次第に覆われてくることが多い。


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アンティグア郊外の村、サンフアン・デル・オビスポ(San Juan del Obispo)に行ったときに見たフエゴ火山。丁度小爆発があり噴煙が上がったところ。



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2012年5月に噴火した時のフエゴ火山。(中米の elsalvador.com から)



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アティトラン湖にも美形火山があった。フェリーボートから見た手前のトリマン火山(Volcán Tolimán  3,158m)
と真後ろにあるアティトラン火山(Volcán Atitlán  3,537m)。ちょうど重なって見える。(アティトラン湖方面への小旅行については改めて掲載予定)


 [アンティグアは地震の町]

このように中米は日本列島と同じように地震が多く、この町もご多分に漏れず有史前から大地震に見舞われてきた。スペインの植民地になってからでもまず1541年、アグア火山の麓にあった当時の首都(シウダー ビエハ)が噴火による火砕流で壊滅し、数km離れた今のアンティグアに首都機能が移された経緯がある。

その後アンティグアは今の中米全体を治める植民地政府の首都として2世紀に亘ってグアテマラ総督府が置かれていたが1717年9月に推定マグニチュード7.4の地震が襲い、市内3,000の建物が崩壊したという。

この災害を契機にさらなる遷都が考えられていたところに1773年に再び大地震が襲い市内の大部分が壊滅してしまった。このため1776年にスペイン国王はもっと安全な場所に遷都せよとの命令を下すに至り現在のグアテマラシティが新しい首都になったとされている。

こうした地震の記録は市内北部にあるメルセー教会(現役の教会だが裏側に回ると廃墟の遺跡が残されている)の博物展示品コーナーで見ることができる。そこの一枚のパネルに過去500年間に起きた大地震の簡単な記録が描かれている。

なお、直近の大きなものは1976年地震(M7.5)で震源が人口の多い中部域付近だったため、犠牲者23千人、負傷者70千人、倒壊家屋数多と大きな被害が出た。特に、山間部に居住するマヤ系先住民の村落では
ライフラインがなかなか復旧せず貧富の格差をますます拡大させる一因になったと言われている。





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中央公園の北3ブロックにあるメルセー教会。現役の教会で結婚式も行われていたが、背後には地震によって廃墟になったかっての教会がある。



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メルセー教会の裏手に隣接する旧教会の廃墟跡。広大な中庭に中米で最大規模と言われた噴水跡が残っている。




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ちょっと見ずらいが1564年以降に起こった大きな地震の強度がパネルに示されている。学術的なものではないが大よそのことは判る。これによると近年の大地震は1773年の後は1976年の震災が直近になる。



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周辺火山を説明するパネルもあった。



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メルセー教会での結婚式に出席する現地の人達。上流クラス(?)らしくそれなりの正装で着飾っている。


 

 [アンティグアは観光の町]

こんな歴史のせいで市内中心部には地震で廃墟になった旧教会がそこかしこに見られ、それが古都の魅力にもなっている。


これらの教会群を中心とした歴史的街並みは1979年に世界遺産に指定されていて、中央公園の東側に面しているカテドラル(大聖堂)をはじめ、今でも中米各国から信者を集めるサン・フランシスコ教会、前出のメルセー教会、廃墟公園として保存されているカプチナス修道院など大きくない市内だが枚挙にいとまがない。

中心部を歩いていると一見して観光客とわかる一団がいつも訪れている。また、街ですれ違ったり、レストラン、カフェテリアや土産物店で見かける外国人も多くこの町が観光地であることがよく判る。

それにしても、人口約8万強というこの町は何で食っているのだろうか?
産業らしきものは郊外に点在するコーヒー栽培などの農業や手工芸品を製作する家庭内工業ぐらいしか考えられない。ということはやはり「観光」を核にした商業・消費都市とみるべきだろう。

観光業はすそ野が広く、この街の規模にしてはホテル、レストラン、お土産物店がとにかく多い。さらに訪れる観光客を相手にする旅行代理店やシャトルバスを運行する輸送関連など直接間接に観光につながっている人口は相当な数に上るはずで、外国人を呼び込むスペイン語学校、それに関連するホームステイ業などもその一翼を担っていることになる。


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正面から見たカテドラルは天気が良ければパステルカラーが美しい。この町の象徴で守護聖人サンティアゴが祀られている。(中央公園から生垣越しに)

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裏手に回り入場料を払って門をくぐると昔を偲ばせる旧カテドラルの偉容が迎えてくれる。

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要するに天井部分が地震で落ちてしまったということだ。

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廃墟の内部にはさぞかし大きな祭壇があったのだろうと思わせる一角もあった。



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外囲いの門から見たサン フランシスコ教会。敷地も広く堂々とした作りでアンティグアでも代表的な教会。病を癒す聖人として慕われるエルマ-ノ・ペドロの墓があるため国内は勿論、中米各国のカトリック信者が参拝にやって来る。さらに現役の教会に隣接して地震で倒壊した旧教会が廃墟として残っているため観光客も非常に多い。



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サン フランシスコ教会の正面。



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現在の教会の後方に拡がる廃墟となっている旧教会。相当大きな規模だったことが窺える。




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その廃墟の一部①



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その廃墟の一部②




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その廃墟の一部③




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右手前看板に「FINCA FILADELFIA」とある。フィラデルフィア農園のこと。門を入ると広大なコーヒー畑が丘陵地に広がっている。コーヒー農園として有料の見学ツアーを受け入れているほか、中にはレストラン、スーベニアショップ、ホテルもある。





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サン フランシスコ教会の横で「CITY TOUR」と書かれたミニ観光バスを見かけた。こんなバスも市内を走っているらしい。


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カテドラルのそばでは観光用馬車が客待ちしていた。




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とある街角で見かけた米国人(?)らしき観光客の一団、ピックアップしに来るバスを待っているのだろうか・・・。下宿先に帰る途中で。

    (以下、「アンティグアの街 ②に続く)


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1.グアテマラへの途 [グアテマラ アンティグア]

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アンティグア市内の中央公園で.左手にカテドラル、背景は長いすそ野をひくアグア火山(標高3,766m)

 

 

 [グアテマラへ]

グアテマラへは日本から直行便がない。利用する航空会社によるがロサンゼルス、ヒューストン、アトランタなどアメリカの都市を経由して入るのが普通だ。

 

 
今回のグアテマラ行きにあたってかなり前から出発・到着の時間帯、乗換の回数や待ち時間、チケット運賃などを調べていたが、帯に短したすきに長しでそうそう納得できるフライトなどあるわけもなく、結局次の便で妥協した。
 

往きは羽田を深夜に出発、ロス→アトランタで乗り継ぎ目的地着は昼過ぎ、復路は現地を早朝に発ちロス経由羽田着が22時すぎというもの。

それぞれの乗継地では4時間強の待ち時間があったが、結果から言えばこのくらいの方が何か思いがけないことに出会っても焦ることなく余裕をもって対応できるので必ずしも悪いことではなかった。

羽田国際空港は初めて。まだ夜間しか発着できないためか、夜も遅いこの時間帯に出発便が集中しているらしくそんなに広くない出発ロビーは利用客でごった返していた。今売り出し中の羽田国際空港だがこれでは早晩パンクするのではと心配してしまう。

行列になっていたチェックインだったが、手荷物検査、出国審査を通過し出発ゲートまで来るとさすがに混み合ってはいなかった、こうして真夜中の01時、ロスに向け羽田を飛び立った。

この時間ならすぐに寝付けるだろうとたかをくくっていたのだがそうは問屋は卸さない。結局うまく寝れず周りで眠りこけている乗客を見るとうらやましくてしょうがない。

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羽田ではチェックインが混雑していたものの、手荷物検査以降はスムーズ。

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ロス行きの133番ゲートはまだガラガラ。


  [アメリカは乗り継ぎでも大変!]

ところで前回アメリカを経由したのは15年以上も前になる。当時の乗継ぎ(南米往復時のトランジット)はロスの場合で言えば入国(審査)はなしで係員が案内する乗り継ぎ客専用のラウンジで待機し、時間がくれば案内に従って機内に戻ればよかった。

しかし、今回ロスの空港での扱いはまったく違ったものだった。

まず、昔と違って到着した乗客は全員が入国審査を受けなければならない。入国する意思がなく単に米国で乗り継ぐ場合もだ。
入国審査の手前ではアメリカ市民以外の列に並ぶのだが、その列では対応する審査官が少なく一人か二人でチンタラやっている。しかも日本でのようにあっさり(?)は通してくれない。

何とか水際で不法滞在・入国を阻止しようと必死なのだろう、米国に来た目的は?、滞在するところはあるのか?などとこと細かく訊いているらしくなかなか捗らない

こちらは米国には用事はなく乗り継ぎだけだから散々待たされたものの特に質問は受けなかったのだが、それでも両手を出せと促されて左右10本の指紋をキッチリ取られ、その上ご丁寧にも顔写真まで撮られた。
思いがけない流れでいい気持ちはしない。

その上、不本意ながらとはいえ入国してしまった以上ターンテーブルで荷物を引取らざるを得ないのもやっかいだ。
次の乗換便は別のターミナル、
相当の距離を歩いて改めてチェックインだ。ここでも手荷物検査があり、有無を言わせず上着は勿論、ベルト、靴まで脱がされる厳重さでこれも極めて不愉快だった。

確かに9.11以降、出発前にESTA(渡航認証許可)のネット取得が義務づけられるなど米国でのチェックが厳しくなったとは聞いていたがやはり相当なものだ。

当初、今回の往きルートの中にロス→アトランタの国内便が挟まっているので入国審査を受けざるを得ないのかとも思ったが、ロスで乗り換えるだけの復路でも同じだったのでルートによってということもないようだ。
まあ乗換えといっても機材が変わるのでしょうがないのかも知れないが、せめてアメリカ国内に実質入国しない乗客は簡便な扱いで荷物もスルーさせてくれればお互いに楽なのにと思った次第。

最近はどこでテロ事件が発生してもおかしくない世の中になってしまった以上、無差別に厳しく対処せざるを得ないのは分からないわけでもないが、何か割り切れないものが残る。

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ロスで入国審査後、荷物を引き取らされ改めて次の乗継便に預ける。同じ航空会社なのだしスルーにしてくれれば楽なのに・・・。その後、一度外に出て乗継便が出る第5ターミナルに向かう。

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アトランタに向かうロス第5ターミナルの58番出発ゲート。

  [無事グアテマラ到着] 

羽田を飛び立って27時間後、ようやくグアテマラシティのラ・アウロラ国際空港に着陸した。
現地は13時前で真っ昼間だったが時差が15時間あるので日本は2晩目の早朝ということになる。
結局、浅い眠りばかりで殆ど寝た気がしないままにここまで来てしまい頭は重く体調は良くない。

入国手続きはあっさり済み荷物のチェックもなく空港建物の前に出てくるとそんなに広くないそのあたりは出迎えの車と人、そして現地の物売りの老若男女でごった返していた。雑然とした雰囲気に思わず身を固くする。
でもよく見ていると特に危ないわけでもなく、昔南米のいろいろな空港で見ていた景色と一緒でどこもこんな風だったなあと懐かしい記憶が蘇ってきた。中米と南米をまとめて中南米と言ってしまうようにスペイン語文化圏の雰囲気はどこに行ってもよく似ているということか。

旅の前からこの空港周辺は治安が良くないと聞いていた(少しオーバーだが)のであらかじめ空港でピックアップしてくれてアンティグアまで連れて行ってくれる車を手配しておいた。
空港出口でしばし待機しているとそこへこちらの名前を書いた紙を持った男が近づいてきた。

こうして無事迎えの運転手と落ち合うことができ、かなり大きなバンで30km先のアンティグアの町に向かった。

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空港の脇の道路を通ってアンティグアに向かう。グアテマラシティの市街は滑走路の向こう側のようだ。車窓から。

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グアテマラシティの近郊風景。車窓から。

   [何でグアテマラ?]

ところで、なんで“グアテマラ”なのかを説明しておこう。

もうおととしのことだが、ある新聞で見たコラムがそもそもの始まりだった。
その内容は、今の時代らしくスカイプを使って現地のグアテマラ人主婦が日本人にスペイン語の個人授業をしているという話から始まっていた。

退職後の手慰みで数年前からスペイン語に再挑戦していたのだが、何となくマンネりに陥っていた頃でもありちょっと興味をそそられた。
所詮趣味の域を出るものではないのだが、文法がある程度分かり少し会話が出来るようになるとネイティブの人達とどのくらい通じるのか通じないのか試してみたくなる。しかし、日本では語学クラスに通っていてもなかなかそんな機会は作れない。
新聞記事の内容は日頃のそんな思いを刺激したということだ。

早速ネットや旅行案内書で調べてみると、オンライン学習はさておき、スペイン語学校で有名な町が二つあることが分かった。一つはアンティグアという町、もう一つはケツァルテナンゴだ。
前者はグアテマラシティの空港から小1時間の小さな古都で何と50を超えるスペイン語学校があるらしいし、後者は少し遠いグアテマラ第二の町だがやはり20近くあるという。

この国ではまだ人件費が安く、日本に比べれば生活費もあまりかからないからホームステイ(学校が斡旋してくれる)でもしながら学校に通えば驚くほど安い費用で現地生活と語学学習の両方を楽しめそうだ。まさに一石二鳥である。

しかも、アンティグアには日本人経営の学校もあることが分かり、俄然現地へ行ってみようという気持が高まった。加齢に伴う諸能力の衰えは懸念材料だったが時間はたっぷりある身だ、行くなら今のうちという判断が働き、学校で半日の個人授業を受けつつ、それ以外の時間ではホームステイをしながら現地での日常生活を楽しみ、アンティグアの街や周辺の観光地にも足を延ばすというちょっと欲張りな "三兎" を追うことにした。

 
  (以下、「アンティグアの街 ①」に続く)


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アンダルシア⑦(コスタ・デル・ソル点描 その3)

 [フエンヒローラのセマーナサンタ]

キリスト教圏では”セマーナサンタ”(Semana Santa:聖週間)の方がクリスマスより重要な宗教行事とも言われる。
日本でいえばお盆であると同時に連休が続く春のゴールデンウィークに似ているかも知れない。

一週間に亘ってスペイン全土で行われるのは”聖行列”(プロセッシオン:Procesion)”と言われる伝統行事だ。キリストの身に起こった「受難ー磔刑ー復活」という出来事を信者(コスタレロ:Costalero)が担ぐ山車の行列などで再現しているものらしい。

アンダルシア地方ではセビージャの聖行列が特に有名でその模様はテレビでも生中継されるほどだ。

勿論、マラガでもフエンヒローラでもそれなりの規模で行われ、連日キリスト像や聖母マリア像の神輿のような山車や独特の楽隊が行列をなして町のカテドラルに向かって練り歩き、沿道は地元民に観光客も混じってごった返す。

ちょうど日本の夏祭りでも行われる神輿や山車の行列をもっと厳粛に宗教色を強くした感じだろうか。
この一週間はマラガまで見物に行く客のために電車も終夜運転の特別ダイヤが組まれ日本の大晦日並み。

フエンヒローラでは事前情報で「最後の晩餐」にあたる木曜日の夜が見ものだというので小雨がパラついてはいたが出掛けてみた。

行列のスタートは20時ごろというプログラムを頼りに町の中心にある教会前広場で網を張った。
ここの教会まで来れば聖行列の雰囲気は感じられるだろうし、あわよくばそれに出会うかもと思ったわけだ。

広場周辺には大勢の地元民集まり聖行列の到着を三々五々待っている風に見えた。しかし、
小雨が降る不安定な天気のせいなのか結局聖行列が現われる気配はなく、10時過ぎには冷たい雨になったのでホテルに引揚げることにした。
どうもこの夜は中止だったようだが、何せ昔から伝わる御聖体だから雨に濡らすわけにはいかなかったのかも知れない。
 

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フエンヒローラの昼間の聖行列。御聖体はマリア様か。(一般映像)



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マラガのプロセッシオン。キリスト像を担ぐ人達はコスタレーロと呼ばれ、それに選ばれるのは名誉なこととされる。(一般映像)



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マラガの聖行列。一つの山車の重量は1.5から2トンもあるという。(一般映像)



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20時過ぎの中央広場の教会、日没はまだだ。



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広場には三々五々人が集まっていた。この頃はまだ日も射していたがこの後天気が悪化、雨も降り出す。



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日頃それほど混まない広場の周辺道路も今日は大変な人出。



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広場もモノ待ち風(?)の人たちが増えてきた。


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21時をまわり、ようやく暗くなってきた教会前はいよいよ沢山のひとで溢れる。



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教会の横の扉が開いていたので中をのぞいてみたらミサが行われていた。


 [ホテルを換える]

セマーナサンタが始まる日曜日、別のホテルに移った。
それまで5泊したホテルはセマーナサンタになると部屋代が倍近くになる(一般にセマーナサンタ期間は春の旅行シーズンでホテル代が高くなるのは普通。)のが分かっていたので別のまだマシなホテル(数少ないがそんなホテルもある。)を予約しておいた。
昔泊まったことがあるホテルで、ちょうど町の反対側(東側)のロス ボリチェス地区にある。

このホテルは海沿いの海岸道路に面していてどの部屋からも地中海が目の前だ。しかし、あてがわれた部屋は少し奥に引っ込んだ位置で予想に反したが、まったく海が見えないわけでもなし、結局そのまま9泊することになった。

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部屋のバルコニーからの景色。ホテルの前の道路を渡れば地中海だ。



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同じ角度で夜はこんな感じ。



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部屋はワンルーム型で一部屋の中に二つのベッドと応接・食卓セットがあり、簡易キッチン、水周りが別部屋になっている。ベランダは視界が若干制約されていたが広くゆったり。



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ベランダのテーブル。



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そのテーブルで海を眺めながらのんびりワインを傾けるのは至福の時間。



 [語学学校]

新しいホテルに移った翌日の月曜日、前の週に受講登録しておいたスペイン語の学校に不安半分、期待半分で初登校した。
学校といっても街中のごく普通の住居街の一軒を学校使用しているだけのこと。1、2階の8~10畳程度の幾室かを事務室や教室にしている。

授業は9時半開始ということなのでホテルを9時に出た。徒歩で20分弱か、丁度よい距離。
1階の受付に顔を出すと教室は2階だという。果たしてどんな仲間と一緒になるのか、多少緊張して部屋に入ると既に4人の生徒が席についていた。いずれもヨーロッパ人と見受けたが若い男女が一組と中年の男女が一組という顔ぶれだ。

取り合えず、「お早うございます、初めまして・・・」と名前だけ言って待っていたらまもなく先生がやってきた。先週面接をしてくれたカルメン先生だ。
すぐに簡単な自己紹介が始まり生徒のおおよそのことが分かった。

若い二人(ホアキンとマリー)はフィンランド人で、大学(音楽関係と言っていたが詳細不明)を出たばかりのカップル。後日の話では彼の方はスペイン語を覚えて音楽関連の仕事に生かしたいと言っていた

中年の女性カリーナ(スエーデン人)は、昔この町の旅行代理店にいたことがあるそうで時間ができた今改めてスペイン語を勉強しているとのこと。

男性の方はビアネといって50歳は超えている(?)デンマーク人、奥さんと一緒にこの町に住んでいる友人宅に逗留していてダンナだけここに来てスペイン語を習っているらしい。
先生然としていて、いつも分厚い辞書を何冊か拡げており学習意欲は満々に見えた。

若いカップルは既にこのクラスで3ヶ月も続けているそうだし、他の二人も1ヶ月前後前から通っているらしくレベルは相当高い。日本人と違って外国語といっても同じアルファベットだから彼らはあまり苦労しなくても簡単に身につくという話はよく聞くところだ。

全員受講態度は真剣だし少人数のクラス編成なので当然中味の濃い授業になる。
これはヤバいところに飛び込んだかなと思いつつも、今更逃げ出すわけにもいかず、とにかく変な日本人が入ってきて迷惑だったと言われないようにしなければと気を引き締めた。

9時半から始まった授業は13時半まで。途中11時半ごろ20分ぐらいのコーヒーブレイクがある。
カルメン先生の授業はさすがに手馴れたもので生徒個々のレベルに合わせ丁寧に説明しできるだけ話させる機会を与える。とにかく歯切れのよい進め方が印象的で心地よかった。

教材は中級用の分厚いテキスト(CD付き)を基本に、読み物、エッセイ、練習問題などのプリントを適宜使って行われるので飽きさせることはない。

初日の授業が終ると緊張がほどけどっと疲れが出たが、開放感、達成感を味わうのも束の間、すぐ次の日の準備だ。あらかじめ配布された翌日用のプリントを読み込み、テキストも先読みしておかないと授業に付いていけそうもない。この準備のために夕方の散歩と夕食以外のすべての時間を費やさざるを得ない日が続いた。

それでも、この週は幸い(?)にも週末の木・金がセマーナサンタの休みだったので辛うじて凌ぐことができたが、一週間丸々クラスがあったらかなり厳しかっただろう。
「難しいなら他のクラスに移る選択もあるけど、今は入門クラスしか開講していないので・・・」とカルメン先生から言われていたが、次の週の帰国する前日までギリギリ耐えるほかなかったというのが本当のところである。

果たして先生やクラスの皆さんにどう見えていたのか本当のところは分からないのだが、遠来の闖入者を快く受け入れてくれて貴重な経験をさせてもらえたのはありがたかった。

リゾートの町でこんな体験が出来たのはとても幸せなことだったが、集合時間に追われるツアーの旅ではなく、物見遊山に終始する旅でもない今回のような旅のスタイルは満足感、充足感が違うような気がする。


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語学学校の入口脇の看板。



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ホテル前の海岸沿い散策路。終日散歩する人が絶えないが、天気の良い夕方(6時ごろから10時ごろまで)は特に多くなる。



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砂浜沿いに延々と続く遊歩道を現地のFMやお気に入りの音楽を聴きながら歩くのは本当に心地よい。毎日1万歩近く歩いていたがそんなに疲れは感じない。



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道路脇で一休み。季節はずれの砂浜はまだ人出は少ない。



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学校に通い出してからめずらしく天気の悪い日が続いた。そんな日でも雨の合間を狙って歩きには出ていたが、サーファーの姿も途切れることはない。



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歩いていてふと顔を上げると空に大きな雄牛が!!!   ロス ボリチェス地区の山が迫った崖の上の看板だった。


 
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手前はアフリカから来たと思われる黒人の若者。沢山の荷物は露天で売るアクセサリーなどだろう。近年アフリカからのこうした移民は一段と増えこの街の海岸道路などでも店を広げている景色が増えてきた。


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連休に入る水曜の夜、めずらしくTVE(国営テレビ)でサッカー中継があった(普通は有料チャンネルでないと見れないことが多い)。コパ・デル・レイ(国王杯)の決勝、「FCバルセロナ VS レアル・マドリー」だ。延長にもつれ込み クリスティアーノ ロナルドのヘディングが決まってレアル・マドリーが1-0で勝利、国王杯を手にした。この雌雄対決はいつも国内を二分し大変な盛り上がりだ。



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ヘディングで決勝点を決めたクリスティアーノ ロナルドのインタビュー。



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学校の帰りに見かけたフラメンコの衣装がブラ下がったお店。春祭りの衣装としても着られるようだ。



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授業が終わりホテルに戻る途中、こんな店でランチ。ほっとした気分でビールを飲みながらのランチは何を食べても美味しい。



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クラスメートのマリーが推薦してくれた海鮮レストラン「Matahambre」で。写真の一皿はクリームチーズを薄切りの(スモーク?)サーモンで巻いた一品。なかなかの美味。



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白ワインを飲みながらのクリームチーズのサーモン巻きとエビなどの串焼きはこたえられない。帰国の前日にももう一度行ってしまった。



震災直後の日本を発ってポルトガルのリスボン周辺巡りから始め、その後陸路でスペインに入りセビージャ経由でコスタ・デル・ソルに滞在、その間モロッコまで足を延ばしたり、語学学校に通ったりと3週間に亘った欲張りな旅。兎にも角にも内容満載で無事幕を閉じることができたのは本当に幸いだった。

 (以上でこの旅記録は終りです。)



 


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アンダルシア⑥(コスタ・デル・ソル点描 その2)

 [マラガの街]

セマーナサンタ(聖週間(今年は4月第4週で普通の年より遅かった)を来週に控えた天気のよい土曜日、マラガの街に出かけた。
どうしても行ってみたいところがあったわけではないが、マラガのシンボルともいえる城址を登り、その後中心街をブラつくという目論みだ。

まず、フエンヒローラから電車で46分、終点のマラガ(セントロ アラメダ)駅に向かう。地下駅から地上に出ると町の中心部を流れるグアダルメディナ川のほとりに出る。
ここから少し東に進むとマリーナ広場があり、海沿いの緑豊かな公園、パセオ・デル・パルケが始まる。

右に公園、左にカテドラルを眺めながらさらに進むと前方に「ヒブラルファロ城」(Castillo de Gibrarfaro)がある小高い丘にぶつかる。

以前観光バスで市内を一巡したとき丘の頂上にも寄ったのだが通り過ぎただけで城には寄っていない。今日は出来れば徒歩で登ってみようと、まずは麓にある「アルカサバ」(Alcazaba)の入口に向かった。

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マラガのセントロアラメダ駅を背にアラメダ・プリンシパル(Alameda Principal)大通りを行く。



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マリーナ広場(Plaza de Marina)あたり。



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道路の奥にマラガのカテドラルが見える。16世紀の建設時、資金不足で右側の塔が未完成のままというちょっと変わった曰くがある。



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振り返って見るアラメダ・プリンシパル大通り。港のそばを東西に走るマラガの大動脈だ。



入場券は「アルカサバ」+「ヒブラルファロ城」の通し券(3.45ユーロ)があったのでそれにした。
しかし、ここでちょっとした思い込みが頭に入ってしまった。
「アルカサバ」は丘の麓の登り口にあり、「ヒブラルファロ城」はその頂上部に位置しているので、「アルカサバ」を見物しながら登っていけば入場券も通しだし「ヒブラルファロ城」にはそのまま通じるだろうと思い込んだのだ。

「アルカサバ」はアラブ勢力が支配していた12世紀に既にあった古代ローマの要塞を土台に建てられた城塞だ。
アラブ特有の石積みの壁は重厚にして堅牢な砦の印象を与え、訪れる者を圧倒する。一方で内部の城門や建物にはアラブ特有の馬蹄形アーチや幾何学模様の壁などが見られる。さらにアルハンブラ宮殿を思わせるような庭園もあったりして荒削りな中にもイスラム文化の繊細さを感じさせそのコントラストは興味深い。

さて、丘の麓から順路に従って要塞内を見学しながら最上部の”誓いの塔”まで登ってきたのだが、上に見えている「ヒブラルファロ城」に続く道をどうしても見つけられない。

折角かなり登ったのに止むを得ずまた下の入口まで降りて尋ねると、「ヒブラルファロ城」へは一度外へ出て別の山道を行くのだと言う。すっかり思惑が外れてしまい改めて高さ100m以上(はあるだろう)の山を登る気力はもう失せてしまった。


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「アルカサバ」の入口付近。人を寄せ付けない頑丈な構えだ。

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入口を入るとすぐにあったイスラム様式のアーチ型の門。
 

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登って行く道沿いには並木(オレンジの木?)や植え込みが整備されている



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見事な石積みの城壁。



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少し登ったらマラガの海沿いの市街が見えてきた。



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丘の最上部が「ヒブラルファロ城」。



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「アルカサバ」最上部からの眺望。画面左側にマラガ闘牛場の円形の屋根が見える。



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アングルを右に振れば、尖塔が一つしかないカテドラルがあるマラガ市街中心部になる。



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さらに右に連続する部分(市内北部になる)を望む。



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「ヒブラルファロ城」に行くにはこの道を登るようだ。左は「アルカサバ」。



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画面左上が「ヒブラルファロ城」だが改めて登るのはそれなりの気力が必要だ。なお、この城の一部はパラドール(歴史的建造物の内部を改装した国営ホテル。歴史保存の一策。)になっていてテラスからの景観は有名。



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頂上(ヒブラルファロ城)まで行けばこの景色が望めたのだが・・・。左手前はマラガの闘牛場。マラガ港の向こうにTorremolinosなどコスタ・デル・ソルの町々が続く。(この写真、ネットからお借りしました)


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「アルカサバ」入口のすぐそばにあるローマ劇場の遺跡。アラブが侵入するはるか前のローマ時代に建造されていたということだ。



時計を見るとすでに2時を回っている。「ヒブラルファロ城」に登るのはあきらめて中心街に出ることにした。
土曜日の午後で街は地元の人たちのほかに、明日から始まるセマーナサンタ目当ての観光客風も混じってかなりの人出だ。

ブラブラとピカソ美術館の横を抜けて「メルセー広場」(Plaza de la Merced)に行ってみた。
下町にあって特に特色があるわけではないが、広場に面した一画に画家ピカソが生まれたという家(現在は展示館になっている)があり、幼少時代にはこの広場が彼の遊び場だったということで有名だ。

ゆっくり時間をかけて楽しむスペインの昼食タイムは今がピーク、どこのレストランも争うように街頭にテラス席を出して客引きに余念がない。客の方も暗い店内よりは日が当たる外の席を好むのは常識だ。
今日はパエージャを食べようと手頃なレストランを探したがどこも混んでいて入りそびれてしまった。バルで一休みした後フエンヒローラへ戻ることにした。

結局、フエンヒローラの海に近いレストラン街で遅い昼食をとり、パエージャはそこでありつけたが味がまずまずだったのは幸いだった。


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「メルセー広場」に向かう。


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建物の壁一面に「メルセー広場」の全貌を描いているようだが、さすがにピカソの街だ。



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振り返れば「アルカサバ」が。その下をくり抜いて市西部に抜けるトンネルのバイパスがある。



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左側の建物の左端あたりにピカソの生家がある。



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ピカソの生家(展示館)に下がった垂れ幕には”ピカソの理髪師”(映画の題名らしい?)とあるが関連は分からず。



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同じ並びに「Instituto Picasso」:ピカソ学院(外国人向けスペイン語学校)があり、日本人も多いと聞く。



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昼時の賑わい。道路にはみ出たテーブルも満席。



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行き当たりバッタリで入ったBARだったが、カウンターの立派さからして格式のある店とお見受けした。



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マラガきってのメイン通り、ラリオス通り(Marques de Larios)。明日以降のセマーナサンタの聖行列を身るスタンドもスタンバイだ。



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同上。経済が落ち込んでいるとはとても思えない賑わいと余裕。



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ふと左の横丁を見るとカテドラルの尖塔が。



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フエンヒローラに戻って入ったレストラン。



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ようやくありついたパエージャ。味はまあまあ。


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細い道を挟んで向いのお店。常連がサッカーか何かのTVを観戦中のようだ。

 [マラガ空港]

この日は朝マラガに出る途中で「マラガ空港駅」で途中下車し、この旅の帰りに利用することになる空港を下見してきた。
というのは、前回来た08年春当時、この空港の拡張工事が真っ盛りだった記憶があり、どんな風に変わったのかも興味があった。

まずびっくりしたのは空港駅。以前は空港ターミナルからかなり離れた駅員もいない田舎の
駅だったのに、今は少し空港に近づいて現代風な地下駅になっていた。
とても便利になりアクセスは抜群に改善されたが、昔ののんびりした風情も懐かしく思い出す。

拡張プロジェクトは大きく三つで、「電車アクセスの改良」と「巨大な第三ターミナル(T3)の新設」の二つは10年3月に供用開始となり、三つ目の「第2滑走路」も計画より3年遅れたが12年6月完成したようだ。

11年の利用者数は1300万人を超えたそうでスペイン第4位の国際空港になったという。(因みに成田の10年実績で3400万人。)

さて、地下駅からエスカレーターで地上に出てペデストリアンデッキの連絡路からT3ターミナルに入った。ガラスと鉄で造られた内部は天井が高く明るくて開放的だ。昔のT2(現在も使用中)の3倍あるというから確かに大きい。

滑走路も2本となって空港の離発着便数はほぼ倍増する。経済が危機的なこのタイミング、果たして地域への経済効果はどんなことになるのだろうか。


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08年4月の「マラガ空港駅」のホームで。まだ地上の駅だったのに今は地下に潜ってしまった。



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08年4月当時のマラガ空港第2ターミナル。この奥に隣接してT3の建設が始まっていた。



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石壁のT2と鉄とガラスのT3がドッキング。右側のずっと先が地下駅になる。



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右方向の駅から連絡歩道橋を来るとT3の2階につながる。



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左側T2,右側T3.



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チェックインカウンターもゆったりになった。380番あたりはルフトハンザが使っている。



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T3の2階から見るマラガ空港滑走路。マラガ市街から8kmしか離れていないが土地はたっぷりに見える。



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チェックインが済むとセキュリティチェックゲートはすぐ横。



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セキュリティチェックの前はかなりの列になっていたが進み具合はスムーズ。ここを通って搭乗ゲートに進む。



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搭乗ゲートが並ぶゾーン。以前T2しかない時代は狭くて大変な混雑だったが、今は隔世の感がある。



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搭乗ゲート。いよいよ機内へ。


 [以下、アンダルシア⑦に続く] 


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